慶應義塾大学通信教育過程の記録

文学部1類(哲学)を2020年3月に卒業!同大学社会学研究科博士課程合格を目指します。

あなたが残してくれたもの

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祖母が他界した。96歳だった。

22年前に会社を経営していた祖父が突然亡くなった。
その頃から、祖母とはいつお別れになっても後悔しないように手紙を書くようになった。



私は祖母の孫6人の中で1番勉強が出来なかった。



学校での成績は良かったが、従姉妹達とは圧倒的なレベルの差があった。従姉妹達は常に全国模試の上位に名前を連ねており、現役で国公立大の医学部に進学した。



自分の姉弟はとにかく要領が良かった。姉に至っては英語の教科書に折り目すらないのにセンター試験では満点近い点数を取り続けていた。家で勉強する姿を見たことは一度もない。姉は暗記パンを持っていたと思う。



とにかく自分は、努力しなければダメなんだと一生懸命頑張ってきたが、高校生になると流石に限界や疲れを感じた。



もしかしたら、辛い表情をしていたのかもしれない。
そんな私に祖父母は優しく微笑んでこう言ってくれた。

「あのね、女の子はニコニコ笑っとればいいがやよ。
 勉強なんか別にせんでいいがやよ」



まあ、それもそうかと一旦は勉強から離れて好きなことをした。高校生活通じて300冊程本を読んだ。海外の文学作品、哲学書、とにかく内容は何でも良かった。授業を抜け出して公園で本を読む日々。今にして思えば、あれ程、フワフワとした愛しい時間はない。


数年後、突如、受験勉強をやる気になり、1日10時間以上勉強して志望校に合格した。自分ではこれ以上望めない程の大学だったが、両親は姉弟や従姉妹と比較してやれやれと苦笑していた。好きなことが見つかったんだねと祖父母は喜んでくれた。


さらに数年後、祖父は亡くなり、次の年に、私は必修科目の登録漏れという痛恨のミスを犯して留年が確定した。同時に東工大に進学したもう1人の従姉妹の3年次飛び級も決まった。母は、自分の娘は留年で姪っ子は飛び級とは何ということでしょうと嘆き悲しんだ。



当時から、実家に帰る度に、お墓や仏壇に手を合わせて、祖父に話をしていた。


またしても、私は重篤な失敗をして母であるあなたの娘を泣かせてしまいました。留年が確定しました。これからどうしたらいいでしょうか・・。

すると、その様子を見ていた祖母が、
「孫は6人おるけど、こうやって来る度にお仏壇に手を合わせてくれるがは、あなただけやわ。本当にありがとうね。あなたは本当に優しいね。おじいちゃんも喜んどるわ。また来てね。待っとるからね。」とニコニコ笑ってくれた。


いやいや、留年の相談してたんだよと言いかけて祖母の優しい笑顔を見て涙が溢れた。そうだ、私は勉強が出来ない上に大きな失敗もした。でも、それでも、少なくとも祖父母は自分を必要としてくれている。それだけで、充分だ。頑張って生きてみようと思えた。


大学卒業後は更に差が開く。
医学部を卒業して地元の総合病院に勤める従姉妹は若くして多くの命を救っていた。地元では評判の腕利きの外科医だった。もう1人の従姉妹は、30代前半で准教授になっていた。姉弟も所謂一流といわれる企業でバリバリと音が聞こえる程活躍していた。


自分も就職した会社で毎日終電まで懸命に働いていた。新卒の営業時代は軍隊のように過酷な日々だったが、従姉妹達と比較すると随分気楽なものだなと卑下することもあった。


そんな時は、祖父の言葉を思い出した。
「あのね、働くってね、はたを楽にするってことなんだよ。周りを良くすることだからね。お金はそのあとね」

そうだ、私の仕事は、誰かの命を任されている訳でもなく、凄い発明をする訳でもない。でも、何処かの誰かを笑顔に出来たなら、それで良いんじゃないのかな。今いる環境で周囲を少しでも良くする方向に傾けたらそんなに嬉しいことはないんじゃないかな。そう思うと目の前の単純作業も愛しく思えた。丁寧に精一杯やろう。はたを楽にするんだ。幸運にも職場の人間関係にも恵まれて仕事はいつも楽しかった。


祖父母の存在がなかったら、どうなっていたか想像もつかない。祖父母には感謝しかない。


そんな想いを手紙に綴ってきた。
隔月くらいのペースだろうか。
ここ10年程は文字が読めているか分からなかったけれど、手紙を送り続けた。
クリスマスカード、誕生日プレゼント、
22年間で100通は超えているだろう。



もう、伝える言葉はない。

22年かけてお別れしたのだ。



後悔なんてない。


でも、堪らなく寂しかった。

もう1度、デパートの地下にある量り売りの飴を一緒に買いに行きたい。祖母が作ってくれたお弁当を食べたい。あの卵焼きじゃなきゃダメなんだ。布を買ってくるからエプロンを作って欲しい。2人で通ったパン屋に行ってチョココルネを買いたい。


色鮮やかな日常生活が甘く胸にしみた。
涙が溢れる。


顔を上げるとそこには従姉妹や姉弟がいた。
小学生の頃みんなで赤トンボを捕まえた。
あの頃と何も変わらない。
時間が戻ったようだ。
従姉妹達はいつも穏やかで優しい。
そして、さらにその子供達には懐かしい面影があった。


生きるって凄いなと思った。


偉業を成し遂げたれたらそれは勿論素晴らしい。
子供の頃からの夢を叶えたらそれも素敵だろう。


でも、ただ、与えられた環境で一生懸命、誠実に生きることの尊さを祖母は教えてくれた。


凄い言葉で人を魅了するでもなく、ただ、目の前にいる家族を親族を隣人を静かに愛すること。


私は大切なことを見失っていた気がする。


祖母は亡くなったが、
これからも手紙を書き続けようと思う。

それは、いつか会った時に渡す日のために。