慶應義塾大学通信教育過程の記録

文学部1類(哲学)を2020年3月に卒業!同大学社会学研究科博士課程合格を目指します。

君が通り過ぎた後に前編

「お友達の心を傷つけるような人間は勉強を頑張っても運動を頑張っても、何の意味もありません」

小1の個人面談から戻った母はそう言って泣き崩れました。

故意にやったことなら今後、注意すれば良いだけの話です。根は深くありません。

問題なのは全く身に覚えがなかったこと。

「ごく自然に4ヵ月楽しく過ごした結果、無意識に誰かを傷つけた?そんなことってある?」

奥歯がガクガク震えました。自分には重大な欠陥があるのかもしれない。

泣き崩れる母を見ながら悲しみが込み上げました。

でも、ここで立ち止まるわけにはいかない。頑張る意味がないなんて言わせない。

歯を食いしばって涙を堪えて前を向いた7歳の夏。

まあ、分かりやすく言えば、当時の私は、下記のようにASD傾向の強い子供で先生や母が心配したというありふれた話です。

ASD の子供
人に対する関心が弱く、他人との関わり方やコミュニケーションの取り方に独特のスタイルがみられる。

相手の気持ちや状況といったあいまいなことを理解するのが苦手で、事実や理屈に基づいた行動をとる傾向にあり、臨機応変な対人関係を築くことが難しく誤解されてしまいがち。

今はさまざまな研究が進み、効果的なケアも行われていますし、本もたくさん出版されています。

しかし、当時はADHDASDなどは一般的ではありませんでした。

先生や親から「意地悪な困った子供」という烙印を押された以上、自分でなんとかする以外方法はありません。

自分の子ども達を見ていると、小1でも困れば「とりあえずググッとくかー」「質問箱いっとく?」など解決方法も多様ですが、まあ、とにかく、当時は、そっちの道はまだ開かれていませんでした。

どうする?

そこで7歳の自分が捻り出した答えは、
「仮説と検証を繰り返す」でした。

ここの説明や経過を書き出すと膨大な量になるので省きますが、

当時のクラスの女子15名の身長や体重など外見的な特徴、成績、性格、親兄弟など取れるだけのデータを集めて、

「この子はこういうタイプだから、これを言ったら多分怒る」

と仮説を立てて、実験をして、結果を分析して、さらにそのデータを加えていく。

延々とこの作業を繰り返しました。

言語化された空気感やあるべき感情などを推し量る能力が低いのなら、別のやり方で代用するしかない。

瞳孔の開き方、話の間の取り方、声の抑揚、呼吸、クラスの女子の動きに全集中する日々が続きました。

そんな毎日も3年目に入り、少しずつ、非言語の部分が人並みになり、ストーリーが掴めるようになります。

今でも割とはっきり覚えていますが、4年生の春頃、プチプチプチっと何かが勢いよくつながり、そこからようやく、教室に色がつき、友達の言葉も分かるようになりました。

は?日本語ネイティブなのに何言ってるの?という話ですが、それまでは教科書を読むようにしか他人の話は入ってきませんでした。

それが、言葉の後ろにある意図や感情まで入ってくるようになったのです。

ここらへんから状況が一変し、見える景色が変わります。

今まで費やしてきた相当な労力と時間が浮いた分、成績が上がり、スポーツなどでも目に見えて結果が出始めます。

クラスでもリーダーや学級委員などを任されるようになりました。

ただし、きちんとやれるのは、スイッチを入れている時限定で、気を抜くと他人のことは全然分からなくなるので、不安や恐怖は常にありました。


そして、そのまま中学生になり、小林に出会います。

小林は、スラムダンク安西先生によく似ていました。

そして、毎日イジメられていました。

プチプチとシナプスがつながる前から

「自分が毎日息を吐いたり吸ったりする場所で理不尽な想いをしている人がいるのは耐えられない」と考えて、

イジメには徹底的に抗戦してきました。

当然、イジメを庇えば自分がターゲットになるリスクが高いですが、そもそも人付き合いは得意ではないから失うものは他の人より少ないと思っていました。

また、シナプスがつながってからは、成績も一定レベルはキープして、先生から頼まれた仕事を120%の力でこなして、

いよいよという時には「私これだけのことをしてきましたよね?当然、助けますよね?」という切り札にするつもりでした。

めっちゃ感じ悪い子。ヤクザみたい。

でも、この程度の自由すら認められないなら学校へ行く意味なんてない。

もっと言えば、生きる意味もない。

子どもとしての責任は全力で果たしているんだから言いたいことくらい言わせてくれと思っていました。

という訳で、小林君がプロレスごっこで半泣きになったり、給食に牛乳を入れられるたびに

「何やってんだ!嫌がってるだろう!」と止めに入っていました。

しかし、「自分はお友達の気持ちを無意識に傷つける人間なんだ」というトラウマは常駐していたので、

自分の行動が果たして正しいのか、小林は庇われて嫌がっているのではないかという不安は拭えませんでした。

特に、イジメを止める時は誰も加勢してくれなかったので、またしても自分は空気の読めない行動をとっているのではないかという恐怖は常にありました。

やはり、ロジカルに計算し尽くした言動以外のことをするのは、まだまだ勇気がいる時期でした。

でも、ここで黙るのは絶対に違う。
給食に牛乳を入れられて喜ぶ人間がこの世にいるか?

おかしいだろう。誰かが泣くことで保たれる空気なんかぶち壊してやる!

威勢は良いものの、もうとにかく毎日クタクタでした。

小林はそんな私をいつも極上の笑顔で包んで、面白い話をしてくれました。

「なかさん、なかさん!」

私のことを小林はそう呼んでいました。

イジメを止めたことに対する直接的な言葉は一度もありませんでしたが、こんな笑顔で仲良くしてくれるなら、それが答えで良いのではないかと思っていました。

そんなある日、

「来月の自然教室なんだけど、小林お願いしていい?」

イソジンのカバオ君にそっくりな担任から声をかけられました。

後半に続く