慶應義塾大学通信教育過程の記録

文学部1類(哲学)を2020年3月に卒業!同大学社会学研究科博士課程合格を目指します。

戦後75年、今あなたに贈る懺悔と感謝

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1.フラッシュバック

いつもの夕暮れでした。

ふと目にしたテレビの画面に大きな衝撃を受けました。


それは、空襲で傷を負いながら子供の手を引いていた母親が力尽きて亡くなる場面でした。


虫がわき始めた母親に子供は健気にもすがりつきますが反応はありません。


やがて空腹に耐えきれず、母親から離れて食料を探そうと歩き始めます。


そこで主人公と出会い育てられることになります。


後に、こうの史代の同名漫画を原作とする、片渕須直監督・脚本、MAPPA制作の長編アニメーション映画『この世界の片隅に』であることを知りました。

その場面は時間にして10秒ほどでしたが、
何故か涙が止まりませんでした。


ずっと昔から、自分は何か大きな忘れ物をしている気がしていました。

そう、何かが欠けている・・。

心に小さな穴が開いていて、時々、ひゅーと冷たい風が吹き抜けるような・・そんな感覚が拭えませんでした。


最後の欠片を、
ようやく見つけた気がしました。

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2.今ここにいる奇跡

父方の祖母は現在90歳です。
脚は少し悪いようですが元気に暮らしています。

祖母は孤児でした。

曾祖母とは血の繋がりがありません。そして、祖母には同じく孤児である姉がいました。

90年前、なぜ祖母が孤児となったのか。曾祖母がなぜ2人の女の子を育てようとしたのか。


今となっては、様々な疑問が湧きますが、物心がついた頃から、そこにある日常はあまりにも自然で何の違和感もなく受け入れてきました。

もしかしたら、曾祖母の人柄のせいかもしれません。

曾祖母は、80歳を過ぎても、綺麗に和服を着こなし、花札や麻雀に興じる粋な人でした。愚痴や泣き言、感情的な言葉は聞いたことがなく、カラッとした気持ちの良い人でした。

小さな身体、細い腕、白く長い指・・


そんな曾祖母が抱き上げた2人の女の子から、
90年の歳月を経て41人の命が誕生しました。
私はその1人です。


「戦争中は色々あったんやろうなあ」


微かに煙草の匂いがする膝の上で、そんなことを考えていたのが曾祖母との最後の思い出です。


曾祖母には感謝しかありません。


特に、自分が親になってからは、子供を育てることの大変さを身に滲みて感じました。

しかも、祖母は1930年生まれです。

1930年と言えば、日比谷公会堂開場や東京駅八重洲口が開業した年ですが、前年の1929年にはニューヨーク市場大暴落、世界恐慌が始まっていました。

生後間もない新生児と幼子を2人を抱えて、終戦までの15年間、そして、戦後の食糧難をどう乗り切ったのでしょうか・・。

気が遠くなってしまいます。


血の繋がりはなくても、


私は、曾祖母と過ごした僅かな日々の記憶と、その生き様を誇りに思っていました。


ところで、祖母や曾祖母と過ごした私の実家は、映画『少年時代』の舞台となった、疎開先になるようなのどかな田舎です。


しかし、海軍飛行予科練習生だった祖父は間もなく出撃というところで終戦をむかえました。当時、若干15歳、生きて帰れたかは分かりません。


父方の祖父は奇跡的に帰還していますが、祖母の兄は戦死しました。


のどかな田舎ですら、その時代を生き抜くことは非常に困難だったのではないかと思います。


ですから、例えば、渋谷のスクランブル交差点や品川駅の改札を出た瞬間、

目の前を横切る何百人という人達全てが、今、この瞬間を生きていること自体が奇跡なのではないかと、

時には、血の繋がりを超えて支え合って、懸命に命を繋ごうとした曾祖母のような存在があったのではないかと、

そんなことを思うと、全てが眩しい光に包まれているような気がしました。

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3.癒えない傷

私にとって、どんなに辛い状況下でも愚痴ひとつこぼさず、前向きに淡々と生き抜く武士のような曾祖母や母方の祖父母は、憧れの存在でした。

ところが、祖母は・・虚言癖、浪費癖、アルコール依存など問題の多い人でした。

私にとっては、大好きな祖母でも、母にとっては、非常に手のかかる姑だったようです。

母は「あの人は私のこと憎くて仕方ないのよ。だからこんな意地悪ばかりするのよ」と祖母の仕打ちに毎日のように泣き崩れていました。

大切な母の泣き顔を見るのは、身を切られるように辛かったですが、その一方で、母の言葉には違和感を感じていました。


祖母は母に対しての悪意と言うよりは、何かに腹を立てている、または深く傷付いている、それを何とかして振り払おうとしている気がしました。


その原因は何なのか・・それが分かれば2人の仲は回復するかもしれません。

とにかく、絶対に母のせいではない。母の人格には何ら問題はない。祖母が憎いのは母ではない。

例えば、嫁いできたのが母でなくペンギンならば、ペンギンを徹底的にいじめたに違いない。

だから、とにかく冷静になって、これ以上無駄なエネルギー使うのをやめて欲しい。

そんなことを伝えようとしましたが、幼稚園児の語彙力では到底難しく、祖母と母の終わりなき戦いに胸を痛める日々は続きました。




4.今日から俺は

曾祖母が亡くなってから1年が過ぎた頃でしょうか。

祖母はいつものように、よく分からないことで腹を立て夕飯前にいなくなってしまいました。

探し回ったところ、家の奥にある物置にいました。

「おばあちゃん、何やってるの?」

「自分の部屋を作ってみたんだよ!」

祖母は無邪気に答えました。

自分の部屋?!

田舎の大きな家を思い通りに増改築して・・家全部が自分の部屋みたいなものでしょうに、と吹き出しそうになるのを堪えて、続けました。

「ご飯だよ!戻ろう!」

「いやや!ここにおる。ここは落ち着くもん!」

「そっか・・。確かにいい感じやね。これは・・卒業アルバム?」

「そうそう、尋常小学校のね」

「あ!これ、おばあちゃん?可愛いー」

キャッキャ言いながらページをめくっているうちに、祖母は意外なことを語り始めました。

「おばあちゃんはお姉さんに比べて美人じゃなかったからさ、全然可愛がられなかったんだよ」

「・・・」

「いっつもお姉さんが1番でね。おばあちゃんは辛くてさ。そうそうあの時も・・」

祖母の話はとめどなく続きました。

それは血の繋がりのない美しい姉への嫉妬と思うように愛してくれなかった曾祖母への怒りと悲しみに満ちていました。

小学校2年だった私は絶句しました。

孤児だった祖母を育ててくれた曾祖母に対して、感謝こそすれども、恨むことなどあろうはずもないと。

そう思い込んでいたからです。

それはそうと・・芸妓さんだったお姉さんは、ちょっと可愛いとかいうレベルではなくとんでもなく美しい人でした。

祖母は愛らしい外見ではありましたが、お姉さんと張り合うには武が悪すぎる・・。

言葉を失って改めて祖母を見ました。

綺麗にセットされた髪、完璧なメイク、レースのブラウス、ピンクのタイトスカート・・今からパーティーにでも行くような格好で半ベソをかきながら物置の片隅で孫に人生を憂いている祖母・・。



ああ、祖母は、おさげ髪の小学校の卒業アルバムのままなんだ。


そこで時間が止まっているんだ。


その瞬間に、全ての謎が解けた気がしました。


どれだけ高級な服や化粧品を買っても、

綺麗に着飾って「ええっ!おばあちゃんなんですか!若い!信じられない!」とみんなから称賛されても、

お気に入りの家を買っても、

沢山の孫たちに囲まれても、

友達や祖父と旅行で日本中を巡っても。


何を手に入れても、全然足りない。
満たされなくて、いつも、心は悲しみで一杯で。

辛くて苦しくて、その怒りを、とりあえず今は手っ取り早く、目の前の母にぶつけてしまう。


「一体何が不満なんだ?これ以上何が欲しいんだ?」


そんな正論を振りかざしたってダメなんだ。
理屈じゃないんだ。


祖母の心は壊れている・・。


あの時、あの瞬間に、愛されたかったんだね。

可愛い可愛いって言って欲しかったんだよね。

寂しかったんだね。気付かなくてごめんね。


私は心の中で祖母を抱きしめました。


「今日から私は、あなたの親友になる。あなたのお姉さんになる。あなたのお母さんになる。お父さんにもなる。あなたを全力で愛するから。絶対に、寂しい想いはさせないから!!」

物置に差し込んだ西日はピンク色に部屋を包みました。
理解されるものから理解するものとして立つ!!

小学校2年生の私は、長年の謎が解けたこと、そしてそれを解決するであろう素晴らしい思い付きに、いきりたっていました。



5.鍵は誰が握っているの?

しかし、現実はそう甘くはありませんでした。
どれだけ祖母の心をノックしても、扉が開くことはありませんでした。

祖母は溺愛と言っていいほど私を可愛がってくれました。自分がして欲しかったことを孫たちにしていた気がします。

それは、教育という観点からは良くないこともありましたが、とにかく、いつだって全肯定してくれる祖母は、厳しい両親の元で育った私の心の拠り所でした。

だからこそ、どうにかしてお返ししたいのに。

楽になって欲しいのに。どうしてうまくいかないんだろう。

私の言葉は祖母の心の表面を気持ちよく撫でるだけで、奥深くまで浸透することはありませんでした。

相変わらず、母に辛辣な言葉を投げて、虚言や浪費、過度な飲酒を繰り返して家族を困らせていました。

そんな日々を重ねるなかで、行き場のない感情を、私は無意識にある人のせいにしていました。

それは、祖母の生みの親である、もう一人の曾祖母でした。

6.懺悔

祖母の生みの親に関する詳しい情報はありません。

母親は、いわゆる夜の街で働いていたようです。

婚姻関係のない父親は軍人だったそうです。

祖母は生まれてすぐに曾祖母に引き取られました。

たったこれだけの情報から、私は、長い間、致命的なミスを犯していました。

それは「祖母を手放したのは生みの親の勝手な都合」という思い込みです。

そもそも、自分の手で育てたら、祖母は辛い思いをしなくて済んだのに。

血の繋がりのない曾祖母がこんなに頑張って育てたのに。

祖母のことが好きで好きで堪らない祖父が懸命に愛して尽くしてきたのに。

孫の私まで出しゃばっているというのに。

なぜ祖母の傷はいつまでも癒えないのか。
怒りや悲しみが続くのか。

これは、もう、ダメなのかもしれないな・・
過去は変えられないんだ・・

私がやれることは全部やった。
もう、打つ手はない。

最近では諦めにも似た感情が芽生えていました。

そんな時でした。


テレビごしに、戦争で亡くなった母の手を振り解いて、歩き出す子供が目に入りました。



なんてことだろう。

祖母と生みの母は死別だったかもしれない。

また、そうでなかったとしても、事情があって泣く泣く断腸の思いで生まれた祖母を手放したのかもしれない。

いや、そう考える方が自然なんじゃないのか。

「この世界の果てに」の主人公すずは19歳という設定でした。祖母が父を産んだのも20歳です。

祖母を産んだ時はまだ幼い少女だったのかもしれない。

19、20歳であるならば、今の私の年齢からして、今、私の娘でもおかしくないじゃないか・・。

「祖母の生みの親」という、たった7文字で表現されていたその人の息遣いが微かに聞こえた気がしました。

祖母を身篭ったのは、1929年の初夏、それから出産する3月まで、あなたはどうやって生きてきたの?

食べるものはあったの?仕事はどうしていたの?

婚姻関係のない男性の子供を生む決心をしたのはなぜ?その人を愛していたの?どんな人だったの?

そんなこと後でいい。

とにかく、何よりも、

厳しい状況下で、
無事に産んでくれて、ありがとう。

そして、今まで、あなたのことを忘れていて、いや、違う。正直少し恨んでいました。

本当にごめんなさい。
90年も。経ってしまいました。

本当にありがとう。ありがとう。ありがとう。
心の底から懺悔しました。


7.甘い妄想

その後、誰かと結婚したの?今、家族はいるの?お墓参りしてくれるような人はいるの?幸せな人生だった?

もう、だめだ。堪らない。

小学校2年生の頃、物置きで心の中で祖母を抱きしめたように、推定20歳前後の生みの曾祖母を強く強く抱きしめました。

「一緒に育てよう。だって、あなたが愛した人との、たった一つの証なんでしょう」

父親がいなくても、2人で協力すれば何とかなるかもしれない。

生みの曾祖母は私の娘、祖母は孫。
そして、私は、今日から、おばあちゃんだ。

私は、あまり器用でないので、特に新生児のお世話は得意ではありません。

まあ、たいしたパフォーマンスは期待できないでしょう。

それでも、曾祖母が夜働き、私は昼間働く。交代で祖母の面倒を見る。ご飯は私が作る。それで何とかやっていけるんじゃないか。

そうそう、これが結構大事なんだけれど・・曾祖母の夜の仕事は全く問題ない。でも、先々考えると、時間を見つけて、経営や簿記、法律の勉強をした方がいい。余力があるなら英語もやって欲しい。

まだ20歳ならそれほど苦労しないはず。今までやったことないから意外に適正があるかもしれない。

そして、祖母は、手先が器用で、和裁、洋裁だけでなく寿司職人として、物凄く稼ぐことになるんだけど、秘かに漢字が読めないことや学歴に劣等感を抱いていた。

何とかして高等教育を受けさせてあげたい。とにかくまずは、読み書き・・算盤は私分かんないんだよなあ・・。何処か良い先生はいないかな。

そんなことを考えていると、不意に視界がピンク色に染まった。

「まーた、おばあちゃんが気難しい顔してる!」

「お母さんの話は理屈っぽくて、よく分からないのよね!」

「難しい本ばっかり読んでないで、お化粧ちゃんとしたら?それに、お母さんいつも同じ服じゃない?」

「今、それを言うかな。図星過ぎて耳が痛いな。って言うか、この子達養うの、お金がかかりそうだなー」

過去は変えられない。それは分かっている。

でも、甘い妄想は心地よく、気が付けば、いつの間にか、私の心にあった小さな穴は塞がっていました。

私が物心ついてからずっと探し続けた欠片は、忘れ物は、命を繋いでくれた生みの曾祖母への感謝、そして労り、愛でした。


8.これから

数日後、母から思いがけない連絡が入りました。

「私ね、あんなにおばあちゃんのこと恨んでいたのに、何故か全部、そういうの消えちゃったの」

「そしたらね、お父さんは馬鹿言うなって笑うんだけどね・・あの田舎の家で、昔みたいにテーブル一杯に、ごーって、御馳走作って並べて、あなた達全員とおばあちゃんとおじいちゃんとみんなで食べたいなって。あなたは、どう思う?」

LINEの画面が涙でかすんで見えなくなりました。

「どうもこうも・・ないでしょ」

物置きの片隅で、心の中で祖母を抱きしめてから30年・・頑張っても、頑張っても届かない日々。

もう、こんな日は来ないと思っていました。

「お母さんどしたの?凄いじゃん!もちろん賛成!やろうやろう!」

返信を打ちながら、今は配偶者や子供を入れるとで20人近くになるんじゃじゃいか・・椅子が全然足りない。

Amazonで買った方がいいかもな・・。

そんなことを考えていたら、
『#アンネ・フランク 時を越えるストーリー』が始まりました。何気なく見ていると、アンネと祖母はほぼ同じ歳であることが分かりました。

ああ、日本国内だけの話ではなかったのか・・。
そんな当たり前のことに改めて気が付きました。

戦後75年、体験者が亡くなっていく中で、私達に出来ることは何でしょうか・・。

テレビのアナウンスを聞きながら、椅子ではなく、子供のために「アンネの日記」を買いました。

2020年、今年はいつものお墓参りには行けません。
でも、90年の時を超えて、探し続けた大切な人と出会えた特別な夏になりました。