他人にとってはなんてことないけれど、どうしても自分のなかで消化できない出来事に遭遇しました。
自分以外の誰かのために。
同じ境遇でこの世を去った若い命を想って記録に残します。
順を追って書くために、まずは自分の子供時代の話。
物心ついた頃から「人はなぜ生まれてどこへ行くのか」「時間はなぜ前に進むのか」「宇宙の果てには何があるのか」そんなことばかり考えていました。
幼稚園に入れば話し相手ができると期待して、失望した入園式の日のことは忘れません。当たり前や。
分かる人には分かると思いますが、ここらへんの渇望感が大学時代の情報学部進学や現在の仕事に直結しています。
そうはいっても、初代マリオで100面を突破したら新キャラが出現すると信じて修行に励む子どもらしい面もありました。
結果は100面超えても同じキャラの繰り返しでした。どうせ目指すなら128面だったのかも。
今にして思えば、その全ては、余裕があってこその道楽だった気がします。
公務員の祖父、田舎ではごく僅かしかない一部上場企業に勤務する父、働くのが大好きな祖母と母。
9LLDDKKの二世帯住宅は、都会では広いかもしれませんが、バブル期の田舎には、錦鯉が泳ぐ池にそびえたつ御殿が立ち並び、クラスにはスネ夫が大勢いました。
だから、自分はごく普通の家で、普通に幸せに暮らしている、そういつもそう思っていました。
そう、「ごく普通の家で」「普通に幸せに」すぐそこにあった、ほわほわとした時間の裏に何があったのか。
なぜ気が付かなかったのだろう。知らないで済ませて良かったのだろうか。
今、とても混乱しています。
それは、先月亡くなった祖父の四十九日で親族が集まり、納骨をする瞬間に訪れました。
普段見ることもない「カラウド」(唐櫃)を開けた瞬間、どよめきが起こりました。
「納骨されているのは3人のはずだよね。なぜこんなにたくさん・・8人の遺骨は誰なの?」
「それは、ご先祖様の社員のみなさまです。当時は結核がひどく若くして多くの社員の方が亡くなられたのです」
住職は静かに当たり前のように答えました。
「し、社員?曽祖母は、会社なんてやってた?」
「うん。女郎みたいな」
母がサラリと答えました。
「!!!!」
特にその場ではそれ以上、誰もその話題には触れませんでした。
その後の食事会でも、再会した子どもたちのはしゃぎっぷりにかき消されてしまいました。
そんなことってあるのか?
18歳で実家を離れてからお盆くらいしか墓参りはできませんでしたが、
小学生のころは、お墓の近くのグランドで毎日ラジオ体操をして、ソフトボールの練習をしていました。
弟と頻繁に野球の練習に通い、マラソン大会の前日は友達と猛特訓。バターになるほどぐるぐる走り回りました。
中学生に入ってからは、裏山のシダ植物の研究で表彰されたり。
すぐそばにお墓で眠る曽祖母を感じられて嬉しかったものです。
見守ってくれているような気がして、すごく安心できる場所のひとつでした。
待って?
そこに曽祖母以外に8人の少女が眠っていたの?
名前は?享年いくつだったの?
知っていたら、手の合わせ方も違ったのに。
なんてこった。
母と2人っきりになる機会があったので思い切って聞いてみました。
「どうゆうこと?曽祖母は遊郭をやっていて、そこで働いていた女の子たちなの?働かせすぎて亡くなってしまったの?それとも身寄りのない子たちを引き取って助けてあげていたの?」
もう、止まらない。根幹に関わることではないのか?なぜ今まで黙っていたのか。目眩がする。
年齢の離れた弟が生まれた日のこと。曽祖母と手を取り合って歓喜の声をあげたこと。
七夕に50人以上の人が家に訪れて祝宴を開いたこと。
曽祖母の葬儀には100人以上が駆けつけたこと。
その後ろに、名を知られることもなく、眠っている少女たちがいたなんて。
都合が悪いとか、過去に蓋をするとか、もう、そんなの全然違うと思う。
自分達だってもう子どもではない。ありのままを知りたい。そして、次の世代に伝えたい。
「あれ?女郎って言ったから勘違いした?遊郭ではないよ。普通に食事を出すお店。
働かせすぎてなんてとんでもない。お店で唯一長生きした叔母さんが言ってたよ。曽祖母には本当に良くしてもらいましたって。曽祖母は、あの時代に修羅場をくぐり抜けてきた立派な人でしたよ」
「・・・」
微かに曽祖母が吸っていた煙草の匂いがした。透き通る白い肌、細く長い指。記憶の断片を集めても届かない。身の丈を思い知る。
「ただね、そういう商売を良く思わない人もいたから、そんな家に嫁ぐのはやめた方がいいって方々から反対があってね」
「お医者さまやら地主やら、お母さん縁談で引っ張りだこやったもんね。そっちにしておけば良かったのに」
「曽祖母の商売や過去は全然問題ないんだわ。あの人は素晴らしい人だった」
父が大学時代に送った母へのラブレターを思い出して思わず吹き出した。
底抜けに明るい母は父の光だったに違いない。
一世一代の勝負に出た後ろには少女たちの魂が込められていたのだろうか。
その後、孤児だと聞いていた祖母を引き取った経緯などを聞いた。
想像していたよりは、現実はずっと残酷で、曽祖母の凄みが増すばかりでした。
当時30歳だった曽祖母が腹を括らなければ、引き取り手がなかった祖母は生きていなかっただろう。
終戦当時16歳だった祖父はあと1週間でも戦争が長引けば確実にこの世にはいなかっただろう。
そんな儚いところで、ぎりぎりのところで。ようやく繋いできた命だったなんて。
「ごく普通の家で」「普通に幸せに」
どれほどかけ離れた世界線をそれぞれが生き抜いてきたのだろう。
そういえば、子どもの頃から、100点を取ったとか、かけっこで1番だったとか。習字や作文などで表彰されるとか。
そんな些細なことで、祖父母はいつも「恥ずかしいからもうやめて」というくらい大袈裟に喜んでくれたものです。
両親は厳しかったし、もっとすごい人はいっぱいいるし。
「こんなの全然ダメだから。もっとやれるはずだし。やらなきゃいけないし」
悔しくて唇を噛んでばかりいる私を「そんなことはない。えらいえらい」と祖父母はガッツリ抱きしめてくれました。
今にして思えば、祖父母にとって生きてきたこと、やっとの想いでつないだ命、それ自体が奇跡で。
何ができるとか、そんなのもう、どうでもよかったのかもしれません。
自分が親になってよく分かる。子どもへの責任があるから手放しで子どもを全肯定なんてできない。親とはそういうものだろう。
しかし、物事の結果に関わらず、存在そのものを全肯定されること。人の成長にそれが非常に重要な鍵となるのもまた事実です。
もともとが小さなコップだったのか、割と幼いうちに、私のコップは、あっさりと満たされて、どばとばと水がこぼれ出すようになりました。
コップから溢れ出した水を、人は「幸せ」というのではないでしょうか。
「能力」や「境遇」、まして「お金」や「地位」が「幸せ」を決めるのではない。
「幸せ」は、自分の心が決めるのだ。
その心を育むのは周囲の人たちからの無償の愛に他ならない。
だとすれば、そうだとすれば、もう、言葉にならない。
8人の少女達は幸せだったのだろうか。
恋をするとか、結婚するとか、そういうことに疎い自分には分からないけれど。
もし、願いが叶うなら、勉強をさせてあげたかった。
自分が幼い頃、あの、小さな街で。
一筋の希望、それはいつも書物の中にあった。
広い世界を知って欲しかった。
もうね、本当に、ただの願望。
エゴだエゴ。
そうじゃない。もっと本質的な幸せは満たされていたのだろうか。
曽祖母を信じたい。少女達が幸せだったと信じたい。
ほわほわとした時間を過ごしてくれたらと切に願う。
今まで、気がつかなくてごめんね。そして、ありがとう。
どこまでできるか分からないけれど。
しっかりと残された時間、役割を果たしたい。
それが供養になれば嬉しい。