慶應義塾大学通信教育過程の記録

文学部1類(哲学)を2020年3月に卒業!同大学社会学研究科博士課程合格を目指します。

2022年振り返りと「正解」

年末なので記録も兼ねて振り返ります。

2022年は創業約850年、源頼朝の腰掛岩が残る「頼朝の湯本陣」でスタートしました。

年末ギリギリまで仕事して、終わったと思ったら、急ぎで今までやったことのない新しい案件が。

腰掛岩に座って構想を練っていたのが懐かしい。

https://www.y-honjin.com/

さて、2022年最終日は、生まれて初めての本格的なアスレチックやりました。

びわこスカイアドベンチャー
https://biwakosky.com/

綱渡るとか絶対無理。
何が楽しくてお金払って危険犯すん?
と恐怖しかありませんでしたが、いろいろあってやることに。

「大丈夫。できるよ。絶対大丈夫。まず1歩、そう、それで良いよ。次の1歩、そう!偉かった!後は全部行けるから」

励まし続けていると、怖いなんて全く感じなくて、ただただ、琵琶湖の美しさが身に染みました。

握りしめる命綱の感触、だらけきった体幹の全集中。

いやもう、最高。

綱の上にいるなんて。

そんなわけで、2022年は「挑戦」がテーマだったのかなと思います。

具体的に・・

放送大学
年間取得単位20単位
目標である「認定心理士」まで、今期の10単位取得できれば残り2単位まできました。放送大学でも素晴らしい出会いがありました。試験期間にコロナに感染したり何度も挫けそうになりながら継続できたのは仲間のおかげです。ありがとうございます。

後は実習の抽選、通って・・。

【仕事】
守秘義務あるので具体的なことは書けないですが、自分の使命をひたすらに果たそうとする人達との出会いに大きな刺激を受けました。「なんか良い感じにいけます?無理?」みたいな仕事がシリーズ化してくれたのも嬉しかったです。日々冒険している感覚でした。全ての方に感謝しています。

【プライベート】
どちらかと言えば、引きこもって本を読んだり、モノ書いてる方が幸せなのですが・・事情があり、社交の場に出ざるおえない日々が続きました。しかも「これは長い付き合いになりそうだな」と思うような出会いもありました。

失敗も山ほどしましたが、アスレチックと同じで恐怖にブルブル震えながら、一歩づつ踏み出せて良かったです。

【フィジカル】
身長155㎝42Kg体年齢20歳まできました。
小学生から高校にかけて剣道でインターハイ出場を目指していましたが挫折。いつか剣の道に戻りたいと思っていました。夜間の練習が多く家の事情もあり、復帰は再来年くらいになりそうですが、国体、または「ねんりんピック」にいつの日か出場できたら良いなと思います。

後は、10年以内にはホノルルマラソンも再挑戦したいです。20代より遥かに節制しているので早く走れる気がします。徐々に身体を鍛えてサクッと10kmくらいは走れるようになりたいです。



煩悩の鐘

全然具体的ではなくて、フワッとしてますが、2022年は、そんな感じです。



さて、最近、ちょっと気になった歌詞です。

「あぁ 答えがある問いばかりを 教わってきたよ だけど明日からは
僕だけの正解をいざ 探しにゆくんだ また逢う日まで

次の空欄に当てはまる言葉を
書き入れなさい ここでの最後の問い

「君のいない 明日からの日々を
僕は/私は きっと □□□□□□□□□□□□□□□□□□」
制限時間は あなたのこれからの人生
解答用紙は あなたのこれからの人生」

正解(18FES ver.) 歌詞より


「正解がないなんて立ち止まっても仕方ない。
仮説検証!PDCA回していきまっしょい!そこに正解があるでしょう」

10代からわりと最近まで、ずっとそう考えてきた気がします。

最近は、というか、この1年間は、ちょっと違っていて、

ロジックも大事だけれど、誰かを想う気持ちや使命感など純粋な愛情、それだけが、ただ僕らを悩めるときにも未来の世界に連れて行ってくれるんじゃないかと。

それこそ、自分のためならやめるけど、誰かのためなら何処までも強くなれる。

失敗を恐れず挑戦できる。そして、失敗しても何度でも立ち上がれる。

そんな気がした1年でした。

私が生涯の目標にしているのは、今は亡き剣道の範士ですが、今の自分には遠すぎる。

1年間に撮った写真を見返してみると、

バイキンマンと一緒にいるドキンちゃんみたいに、ワルい顔していて笑ってしまいました。


震えながら「大丈夫だから!いけるから!」と、一歩、一歩、進んでいけたら良いなと思います。

そして、今年は、いよいよ30年積み重ねてきたものを形に残します。

Fighit music

最近、不思議な出来事がありました。

ある人から、一生懸命にやってきたこと、何十年も積み重ねて大切に育ててきたことを侮辱され、罵られました。

行き違いが多く、誤解を解くべきか迷いましたがやめました。

「課題の分離」という観点からも、自分に非があったしても、ここまで感情的になって辛辣な言葉が出てくるには相手にも理由があるはずなので、これ以上介入しなくても良いかなと思って流しました。

でも、その言葉に悔しくて泣くということは、そこに一片の真実があるからに違いない。

そして、目標に対して号泣するほどの想いがあったのかと今更ながら気がつき、真摯に反省し即座に行動しました。

行動すると見える世界が一瞬で大きく変わりました。

その人にとても感謝しています。

罵倒されることで、泣いて悔しがるほどの情熱があったことに気がついたからです。
相手には何も言い返しませんでしたが、

自分自身を深く抉った傷は、本当に大切なことは何かを思い出せてくれました。

慶應通信では76期秋の方が入学された頃でしょうか。

今いる世界から一歩踏み出すことに対して、

否定的な言葉を投げかけられる機会も、
残念ながらあるかもしれません。

それが、愛する人や大切な友達、信頼する上司という可能性もあります。

うわぁ、めっちゃ辛いやん。

でも、挫けないでください。諦めないでくだい。
そんな時は思い出してください。
あなたは1人ではありません。
共に頑張りましょう。

なんか宗教みたいでこわいですが、
自分のためにも、好きな言葉を置いていきます。


気高い心は時間を従え、空間を制服する。
それは、偶然というほら吹きの詐欺師を怯えさせ、
環境という専制君主から王冠を奪い、意欲的に奉仕する

遅々とした歩みのなかでも、忍耐を崩してはならない。
理解する者として待つ事だ。
気高い心が立ち上がり命じたならば、神々は必ずそれに応えてくる

ジェームス・アレン著
『原因と結果の法則』

苦しいこともあるだろう。

言いたいこともあるだろう。
不満なこともあるだろう。

腹の立つこともあるだろう。

泣きたいこともあるだろう。
これらをじっとこらえてゆくのが、
男の修行である。

山本五十六

他の誰も見ていなくてもいい。
黒い煙のその先に、
お前が光を見たのなら、
行動しろ。思いしれ。
そして、常識に屈するな。

お前がその目で見たものが真実だ。
あの日、あの時、あの光を見た自分を信じろ。

信じぬくんだ。たとえ一人になっても

西野亮廣
絵本『えんとつ町のプペル

これから始まるあなたの大冒険を楽しみにしています。
私も頑張ります。

ワルの特等席

遠足を5日後に控えた小学校低学年の子どもが肩を落として帰ってきた。

「もう遠足行かない。休む」

「ええっ!どうした?」

「バスの席を決めるくじ引きで1人になった」

「隣に誰も座らないってこと?」

「そう」

「めっちゃいいじゃん!!往復2時間半も風景を見てぼーっと・・」

「・・・」

憂いを含んだ視線を感じて言葉を失った。

そういえば昔、弟が父に向けていた眼差しに似ている。

「あの人は、あんな性格だから友達がいないんだ。友達のいない人生なんて太陽のない世界と同じだ」

「父をあの人呼ばわりするのはやめなさい。それに、父にはちゃんと友達がいる」

「既に亡くなった哲学者や経済学者でしょ。今生きてないのに友達とかおかしいでしょ」

「何と言うことを・・。それでは、私たちは太陽のない暗闇で生きてる人のおかげで、毎日学校に通いご飯を食べて暮らしているわけだが、それについてどう思うのかな?」

「それ言われるとどうしようもない」

「貴方は貴方の思う生き方をすれば良い。友達は大事だ。貴方は正しい。太陽が輝く世界を生きれば良い。

でも、自分と異なる価値観を持つ人を敢えて辛辣な言葉で否定しなくても良いんじゃないかな」

「いや、それはそうだけど・・」

あの時私は大学生で弟は中学生だっただろうか・・。
伝わらないもどかしさがよみがえる。

「ごめんね。バス、隣に誰もいないと寂しいね」

「そうなんだよ。誰とも喋れないなんて寂しいよ」

「そうかそうか・・」

普通はそういうものなのか・・。

なぜそんなにお喋りがしたいのか。

無口な人が隣だったらどうするんだ?

いや待て、それでも良いのか。

1人が嫌だということなのか・・。

無口な隣人・・。

何度か書いたが、

学生時代は、部活の新しい技などの考え事に集中するために、決断する回数を少しでも減らしたかった。

そこで、あらゆる依頼に関して、検討は一切なしで、全て引き受けると決めていた。

なので、行事のグループ分け前日の「○○さんよろしく」などの打診も全て受けていた。

中学3年生。

3泊4日、2府8県をまわる修学旅行。

新幹線とバスなどあらゆる移動で隣に座って欲しいと先生から言われたのは、坂本さんという女の子だった。

坂本さんは頭が良くて何でもできるが、言葉を発しなかった。口数が少ないとかではなく、声そのものを発しなかった。

私は坂本さんとは縁があり、小学校の卒業制作も坂本さんとペアだった。

坂本さんは私よりずっと器用で、非常に繊細で、私の言葉のひとつひとつに細かく表情を変えた。しっかりと声は届いているので全く問題はなかった。

でも、先生や友達からは
「坂本さん喋らないけど大丈夫?進んでる?」と声をかけられた。

なぜ心配されるのか分からなかった。

私自身が空気を読むとか、特に非言語のコミュニケーションが苦手で、

普通の人が1か2くらいでできることに100くらいの労力がかかっていた。

いつも疲弊していて、とにかく気を抜いて相手を傷つけることに怯えていた。

さらに、空気が読めないなら視覚で勝負だぜと、相手の表情をがっつり読み込む癖がついていたので、坂本さんの言いたいとは何となく分かった。

繊細ではあるものの穏やかな坂本さんと彫刻を掘る時間は、私にとっては至福だった。

そういう背景もあり、修学旅行で坂本さんが隣でも良いか聞かれた時はとても嬉しかった。

何でもかんでも引き受けたおかげで、修学旅行は、到着時の点呼や現地での挨拶、企画の進行などツアコンかというくらい膨大な仕事があった。

バスに戻った時に、黙って佇む坂本さんを見ると心からホッとした。

そして「ジンベイザメ大きかったねー」「京都、雨降らなくて良かったね」「バス酔いとかしてない?」など勝手に話しかけた。坂本さんは微かに頷くだけだったが充分だった。

そして、2人で黙ってバスの外を見て過ごした。坂本さんがどう感じていたかは分からないが私はとても幸せだった。

最終日。バスに戻っていつものように、一方的に他愛もない話をしていた。

かなり気がゆるんでいて、しょうもない冗談を言ってしまった。

すると、坂本さんの頬が赤く染まりピクピクと震えた。

え?待って?坂本さん、今笑った?笑ったよね?

正面から坂本さんの目を見た。恥ずかしそうに逸らされた。でも、明らかに何かが違っていた。

坂本さんが笑った!!!!!!

疲れが吹っ飛ぶとかそんなレベルではない。

地球が逆回転するほどの衝撃だった。

帰りはずっとニヤニヤしていたのを覚えている。

坂本さんは元気だろうか。
綺麗な字を書く人だった。
どちらかといえば理系なのかなと思っていた。

子どもが小学生になり、自分がどれだけ周囲の友達や大人に支えられて生きてきたかを思い知らされる。

その時、その時、不器用ながらも精一杯やってきたけれど、もっと自分の気持ちを言葉にすべきだったと思う。

過去をうじうじ悔やんでも仕方ないから、最近は、それを実践しようとしている。しかし、まあ、しんどいですね。

「みんな好き勝手言ってるけど、頼まれて坂本さんの隣にいると思ったら大間違いだよ。私は坂本さんと過ごす時間が好きなんだ。坂本さんといるとほっとする。それって坂本さんのことが好きで友達になりたいということなのです。友達になってください」

これがちゃんと言えたら良かったなと思う。

首をゆっくり横に振られそうな気がするけれど。

そして、最後。

子どものバスの話に戻ります。

前日。

あまりにも落ち込んでいるので、いよいよ最終手段か・・担任に状況を確認するか・・と思っていたら、

「やっぱ遠足いくー!」

と元気に帰ってきた。

どうやらバスの最後部座席のひとつだったらしい。

真隣は誰もいないかもしれないが、大人数でわちゃわちゃできる。

「それは良かった。そこワルの特等席じゃん」

「え、何それ?」

「いや、中高生になるとそこは、ちょっとワルめの人達が座る席だから」


ワルの特等席って自分の地元だけ?

令和の中高生はどうなんだろう。

遠足か。もう一回行くとしても、私は坂本さんの隣に座りたい。

そして、もう一度笑った顔が見たい。



そうそう、これは、そもそも勉強ブログで、

そろそろ大学の課題提出の時期で、
今まさに追い込んでる最中の現実逃避だったりもするので、また、追って進捗なども書きます。

何で自分だけが本気じゃないと思ったの?

タイトルは漫画の何となく好きな言葉です。
意味はそれほどありません。

最近行った「宇宙航空研究開発機構(JAXA) 筑波宇宙センター」と「地図と測量の科学館(国土地理院)」

いやもう、なんか好きすぎて、見ているだけで心臓が止まりそうになります。布団ひいてここで寝たい。

実家近くにある「能作」
https://www.nousaku.co.jp/

メディアにも多数出演しています。
自転車で15分、弟とよく釣りに行っていた場所。

ここも心臓止まりそうになります。

あらゆることを言語化するの大好きなんですが、
自分の内から湧き上がる衝動や感情って難しいですね。

1番大事なことは抉っても抉ってもすり抜けてしまう。

さて、まだまだ、ふわふわした話続けます。

私は、特定の人の少し先の未来が見えたりします。
描く姿に綺麗な粒子がキラキラと輝いていて。

「もしかして、ここに行こうとしてる?」迷わず声をかけて、行き先が同じ時は一緒に歩いたり、違う時は友達になったり。

なんかそういう繰り返しが人生なのかなと思います。

20年前、すごく強い光を放つ人が目の前に現れました。

その人は、世界をとてつもなく良い方へ傾けるシステムを作ろうとしていました。

ただ、その時その人は、ひとりぼっちで仲間がいませんでした。

誰も、その人が描く未来が見えないようでした。

先に書いた通り、

私は、自分の感情を言語化するのは大の苦手ですが、
というか恥ずかしいので誰にも知られたくない。

でも、他人の思いを言葉にのせるのは大好きです。

3人、5人、10人、100人、200人と仲間が増えていきました。

このために自分は生まれてきたんだと確信しました。
朝起きてワクワクして倒れ込むように眠る毎日。

描いた未来がすっかり形になったとき、

システムとして半永久的に動くことを確信したとき、

「これでリムジンに乗れるよ!」と仲間の1人から言われました。

なんだかひどくつまらなくなりました。

そして、そこを離れました。

つまらないと思いながらそこにいるのは、自分にも仲間にも失礼だと思いました。


青い・・・。


さらっと書きましたが、
心は血まみれで、

後悔など微塵もないけれど、
今でも瘡蓋が時々疼きます。

それでも、私は、誰にも見えない光の束を見つけて、ゼロから形にするのが好きなのです。

規模は関係ありません。

どんなにささやかな光でも。

最近、あの頃よりもずっと強い光が少し見えました。
他人ではなく自分のなかに。

でも、自分のなかから抉り出すのは大変で、
約2ヶ月で4キロ痩せました。これはびっくり。

とりとめもなく書いていましたが、そのうち具体的な話ができると良いなと思います。

「お遊びはここまでだ!」

なんてキン肉マンみたいなこと言ってみたりして。

本当は、ここ5年ほど、もう、ずーと本気で全力疾走してて、何も残ってないんだけど。

「何で自分だけが本気じゃないって思ってたの?」

なんか、子供みたいに、死ぬまで意地をはっていたいのです。

大人になって、背負うものが増えてしんどいなんて、
時々涙目になってたけど、

「悟空の重い服」ってことにして。

最後まで何言ってるのか分からないですが、半年後にはかけたら良いなと思います。

口笛

他人にとってはなんてことないけれど、どうしても自分のなかで消化できない出来事に遭遇しました。

自分以外の誰かのために。

同じ境遇でこの世を去った若い命を想って記録に残します。



順を追って書くために、まずは自分の子供時代の話。

物心ついた頃から「人はなぜ生まれてどこへ行くのか」「時間はなぜ前に進むのか」「宇宙の果てには何があるのか」そんなことばかり考えていました。

幼稚園に入れば話し相手ができると期待して、失望した入園式の日のことは忘れません。当たり前や。

分かる人には分かると思いますが、ここらへんの渇望感が大学時代の情報学部進学や現在の仕事に直結しています。

そうはいっても、初代マリオで100面を突破したら新キャラが出現すると信じて修行に励む子どもらしい面もありました。

結果は100面超えても同じキャラの繰り返しでした。どうせ目指すなら128面だったのかも。

今にして思えば、その全ては、余裕があってこその道楽だった気がします。

公務員の祖父、田舎ではごく僅かしかない一部上場企業に勤務する父、働くのが大好きな祖母と母。

9LLDDKKの二世帯住宅は、都会では広いかもしれませんが、バブル期の田舎には、錦鯉が泳ぐ池にそびえたつ御殿が立ち並び、クラスにはスネ夫が大勢いました。

だから、自分はごく普通の家で、普通に幸せに暮らしている、そういつもそう思っていました。

そう、「ごく普通の家で」「普通に幸せに」すぐそこにあった、ほわほわとした時間の裏に何があったのか。

なぜ気が付かなかったのだろう。知らないで済ませて良かったのだろうか。

今、とても混乱しています。




それは、先月亡くなった祖父の四十九日で親族が集まり、納骨をする瞬間に訪れました。

普段見ることもない「カラウド」(唐櫃)を開けた瞬間、どよめきが起こりました。

「納骨されているのは3人のはずだよね。なぜこんなにたくさん・・8人の遺骨は誰なの?」

「それは、ご先祖様の社員のみなさまです。当時は結核がひどく若くして多くの社員の方が亡くなられたのです」

住職は静かに当たり前のように答えました。

「し、社員?曽祖母は、会社なんてやってた?」

「うん。女郎みたいな」

母がサラリと答えました。

「!!!!」

特にその場ではそれ以上、誰もその話題には触れませんでした。

その後の食事会でも、再会した子どもたちのはしゃぎっぷりにかき消されてしまいました。

そんなことってあるのか?

18歳で実家を離れてからお盆くらいしか墓参りはできませんでしたが、

小学生のころは、お墓の近くのグランドで毎日ラジオ体操をして、ソフトボールの練習をしていました。

弟と頻繁に野球の練習に通い、マラソン大会の前日は友達と猛特訓。バターになるほどぐるぐる走り回りました。

中学生に入ってからは、裏山のシダ植物の研究で表彰されたり。

すぐそばにお墓で眠る曽祖母を感じられて嬉しかったものです。

見守ってくれているような気がして、すごく安心できる場所のひとつでした。

待って?

そこに曽祖母以外に8人の少女が眠っていたの?

名前は?享年いくつだったの?

知っていたら、手の合わせ方も違ったのに。

なんてこった。

母と2人っきりになる機会があったので思い切って聞いてみました。

「どうゆうこと?曽祖母遊郭をやっていて、そこで働いていた女の子たちなの?働かせすぎて亡くなってしまったの?それとも身寄りのない子たちを引き取って助けてあげていたの?」

もう、止まらない。根幹に関わることではないのか?なぜ今まで黙っていたのか。目眩がする。

年齢の離れた弟が生まれた日のこと。曽祖母と手を取り合って歓喜の声をあげたこと。

七夕に50人以上の人が家に訪れて祝宴を開いたこと。

曽祖母の葬儀には100人以上が駆けつけたこと。

その後ろに、名を知られることもなく、眠っている少女たちがいたなんて。

都合が悪いとか、過去に蓋をするとか、もう、そんなの全然違うと思う。

自分達だってもう子どもではない。ありのままを知りたい。そして、次の世代に伝えたい。

「あれ?女郎って言ったから勘違いした?遊郭ではないよ。普通に食事を出すお店。

働かせすぎてなんてとんでもない。お店で唯一長生きした叔母さんが言ってたよ。曽祖母には本当に良くしてもらいましたって。曽祖母は、あの時代に修羅場をくぐり抜けてきた立派な人でしたよ」

「・・・」

微かに曽祖母が吸っていた煙草の匂いがした。透き通る白い肌、細く長い指。記憶の断片を集めても届かない。身の丈を思い知る。

「ただね、そういう商売を良く思わない人もいたから、そんな家に嫁ぐのはやめた方がいいって方々から反対があってね」

「お医者さまやら地主やら、お母さん縁談で引っ張りだこやったもんね。そっちにしておけば良かったのに」

曽祖母の商売や過去は全然問題ないんだわ。あの人は素晴らしい人だった」

父が大学時代に送った母へのラブレターを思い出して思わず吹き出した。

底抜けに明るい母は父の光だったに違いない。

一世一代の勝負に出た後ろには少女たちの魂が込められていたのだろうか。

その後、孤児だと聞いていた祖母を引き取った経緯などを聞いた。

想像していたよりは、現実はずっと残酷で、曽祖母の凄みが増すばかりでした。

当時30歳だった曽祖母が腹を括らなければ、引き取り手がなかった祖母は生きていなかっただろう。

終戦当時16歳だった祖父はあと1週間でも戦争が長引けば確実にこの世にはいなかっただろう。

そんな儚いところで、ぎりぎりのところで。ようやく繋いできた命だったなんて。

「ごく普通の家で」「普通に幸せに」

どれほどかけ離れた世界線をそれぞれが生き抜いてきたのだろう。



そういえば、子どもの頃から、100点を取ったとか、かけっこで1番だったとか。習字や作文などで表彰されるとか。

そんな些細なことで、祖父母はいつも「恥ずかしいからもうやめて」というくらい大袈裟に喜んでくれたものです。

両親は厳しかったし、もっとすごい人はいっぱいいるし。

「こんなの全然ダメだから。もっとやれるはずだし。やらなきゃいけないし」

悔しくて唇を噛んでばかりいる私を「そんなことはない。えらいえらい」と祖父母はガッツリ抱きしめてくれました。

今にして思えば、祖父母にとって生きてきたこと、やっとの想いでつないだ命、それ自体が奇跡で。

何ができるとか、そんなのもう、どうでもよかったのかもしれません。

自分が親になってよく分かる。子どもへの責任があるから手放しで子どもを全肯定なんてできない。親とはそういうものだろう。

しかし、物事の結果に関わらず、存在そのものを全肯定されること。人の成長にそれが非常に重要な鍵となるのもまた事実です。

もともとが小さなコップだったのか、割と幼いうちに、私のコップは、あっさりと満たされて、どばとばと水がこぼれ出すようになりました。

コップから溢れ出した水を、人は「幸せ」というのではないでしょうか。

「能力」や「境遇」、まして「お金」や「地位」が「幸せ」を決めるのではない。

「幸せ」は、自分の心が決めるのだ。

その心を育むのは周囲の人たちからの無償の愛に他ならない。

だとすれば、そうだとすれば、もう、言葉にならない。

8人の少女達は幸せだったのだろうか。

恋をするとか、結婚するとか、そういうことに疎い自分には分からないけれど。

もし、願いが叶うなら、勉強をさせてあげたかった。

自分が幼い頃、あの、小さな街で。

一筋の希望、それはいつも書物の中にあった。

広い世界を知って欲しかった。

もうね、本当に、ただの願望。

エゴだエゴ。

そうじゃない。もっと本質的な幸せは満たされていたのだろうか。

曽祖母を信じたい。少女達が幸せだったと信じたい。

ほわほわとした時間を過ごしてくれたらと切に願う。

今まで、気がつかなくてごめんね。そして、ありがとう。

どこまでできるか分からないけれど。

しっかりと残された時間、役割を果たしたい。

それが供養になれば嬉しい。

R.ベネディクト『菊と刀』に関する考察

すみません。考察ではないです。
「それってあなたの感想ですよね?」そうです。

いつからだろうか。

子ども達が嬉々として口ずさむ「若者の気持ちを代弁するかのような歌」に違和感と少しの嫌悪感を覚えるようになったのは。

違和感と嫌悪感。それは、特定のアーティストに対してなのか。楽曲に対してなのか。フレーズなのか。

そんなことを数年間考えていて、昨日、とあるアーティストのライブ映像を見ていてようやく気が付いた。

私は、今、この世界を否定的に捉えた上で、
自分自身を被害者であるかのように捉える歌詞、
かつそれが20代、時に10代の日本の若者が創作していた場合に、壮絶な罪悪感を自分自身に感じるのだ。

それならば、自分と同世代のオッサンが世界を憂いていても、あんた何も感じないのか?と言われると、特に何も感じない。

価値観はそれぞれだからだ。75億人分の世界観があって然りだと思う。

でも、この世に生まれて20年とか10年しか経っていない子供や若者から「ぶっ壊れた世界」とか「歪んだ」「意味もない」「価値がない」とかそんな言葉を聞くと切なくなる。
分かっている。

そういう研ぎ澄まされた感受性こそが大事な世界であることは。

それでも、やっぱり、「ごめんね」と思う。

政治家でも資産家でも起業家でも何ものでもないけど、その子の親でもなんでもないけど「すまない」と思う。

大人には子供達に対する責任があると思う。

それが果たせていないことを突き付けられている気がする。
だから、なんだよなあ。


そんなに、この世界は、少なくとも、この国は、ぶっ壊れている?

希望が持てない?

確かに、将来的には、出稼ぎに行かなければいけない状況になる可能性もある。

経済大国日本なんて、遠すぎる過去の遺産だ。

特許の申請件数も年々減り続けている。

悲観的なことを言い出せばキリがない。

でも、本当にそうなのだろうか。

高校生の頃、R.ベネディクトの『菊と刀』を授業で原文で読みいたく感動した記憶がある。

菊と刀』は、第二次世界大戦末期に戦時情報局からの要請で敵国日本人の行動を分析するために書かれた。


「日本人はアメリカがこれまで国をあげて戦ってきた敵のなかで、最も気心の知れない敵であった」

という冒頭からスタートし日本人の「恥の文化」「恩の文化」などについて描かれている。

「いやいや、ないでしょ?それはないわw」

「だから、日本人って嫌なんだよね」

今の子ども達はそんなふうに思うかもしれない。

問いたい。

あなたは、何処からきたのですか?
誰から生まれたのですか?

脈々と受け継いだ命について考えたことはありますか?

否定も悲観も好きにすれば良い。それが若者の特権なのだから。

しかし、前言撤回。

私たちオッサンおばさんが、若者と一緒になって憂えたり、この国を馬鹿にするのは違う気がする。

何ができるか真摯に考える役割があるのではないか。

例えば、子どものために、語学力にプログラミング、無いよりは絶対にあった方がいい。

だけど、慶應の院試を受けた時に感じたアジア圏の留学生たちの、

あらゆる犠牲を払い覚悟を持って積み上げてきた知性と気迫が忘れられない。

幼児期から海外で教育を受けるならともかく、勝負できるわけがないと思った。

もちろん私見に過ぎないけれど。

では、どうするのか?

彼らが大人になった時、

グローバルな仲間たちのなかで「日本人の君がいてくれて良かったよ!」と言われるなにか。

それは、もはや、何を知っていて、何ができるか、ではなく「在り方」ではないか。

良い悪いは別にして「今までの敵国のなかで最も気心のしれない国」である日本人だけが受け継ぐ精神性。

「世界で最も変わってる日本人」最高の称号ではないか。

というか、そこしかないなら、これに賭けたら面白い突破口になるのではないか。

楽しい青春時代を全部投げ打って戦って、何もかも失って、それでも前を向いた、明治末期、昭和初期生まれの先人たち。

血を流しながら歯を食いしばって繋いでくれた命を、

誇りと共に継承するのが、自分たちオッサンおばさんの仕事ではないのか。

そして、今日も私は英語を聴いて、プログラミングの本を読む。Unreal Engineをインストールしてニヤニヤする。

子ども達が「なにそれ美味しいの?」とがっつく。

何でもいい。好きにすれば良い。
「もうやめなさい!」と叱られても、抱きしめたものだけが、かけがえのない武器になる。

もちろんそうやって限界までやっても、
「お前の武器しょぼいなー!おまけに英語もイマイチなのか」そんな未来もありうるだろう。

「でも、君がいなければ困る」そう思われるような、
そんな何かを身につけられたら、もしかしたら、道は開けるのかもしれない。

例えば、子どもの頃、毎週剣道の稽古をつけてもらった範士の先生。

「打つ!」と心が動いた瞬間に、床に叩きつけられる。

それは、自分だけでなく、6段の大人の先生たちも同じだった。

範士の前では練り上げた技も鍛え抜いた身体能力も通用しない。無惨に飛ばされるだけだ。

こんな人間離れした世界があったのかと魅了されて稽古にのめりこんだ。

そうだ、毎週の稽古の終わりに聞いた先生の言葉。

武士道とはまた違う、人間として、日本人としてどう生きるかという指南。

一言一句聞き逃すものかと、帰ったら必ずメモしていた。

それも、答えの一つなのかもしれない。

なんてこった、あのメモはどこにいったのだろうか。

記憶をたどる。それを探しに行こう。

甘いのかもしれないけれど、それも、可能性のひとつだろう。



というわけで、分析でもなんでもなく、超楽観的な主観でした。

鳴かぬならそういう種類のホトトギス

鳴かぬならそういう種類のホトトギス


元ネタが分からないし、解釈が間違っているかもなので、あくまで私見です。



先週、父方の祖父の葬儀があった。

海軍出身の祖父は93年の生涯を静かに全うし、

家族葬にも関わらず多くの人が訪れ、

悲しみのなかにも穏やかな時間が流れていた。

しかし、恥ずかしくて詳しくは書けないが、父のあまりにも常識を逸脱した行為、

親の葬儀でありながら悲しみのかけらもみられない振舞いに、

小学生の長男は目をシロクロさせ、50年以上連れ添った母は相変わらず怒り狂っていている。

いつものように、「父のこの行動は、こういう思考からきていて、悪意は一切ない」

「父は大事な部品がいくつかないだけで、冷たいとか人でなしとか言っても響かないし、無駄なエネルギーを消耗するだけ」「全く悲しくないわけではない」

ひとつひとつ丁寧に解説した。

「なるほど。そう言われると・・。でも、なぜ分かるの?」

「え?自分もそういう血を引いているからだよ。容姿だけでなく、思考や感情も遺伝するのだよ」

「ええっ。やばくない?お母さん大丈夫なの?」

「大丈夫ではない。特に女の世界は共感が全てだからなあ」

「そうだよね。よく今まで頑張って生きてきたね」

「ありがとう・・・小学生に労われるとは」

「何かエピソードとかあるの?」

「うーん。お葬式もそうだけど、卒業式もそうだし、あらゆる別れの場面で絶対泣かないとか。

父ほど極端ではないけどね。

例えば、子どもの頃、転勤族の親友とのお別れがそれぞれ2度ほどあったんだけど、その時も全く泣かなかったかな」

「え?親友なんでしょ?」

「うん、毎日一緒に登校して、家族ぐるみで旅行も行ったし、放課後は、いつも秘密基地で遊んでた」

「なんで?普通、悲しくて泣くよね。どういうこと?」

「え?子供の転校なんて9割方親の仕事の都合なんだから、辞令がでたら、子供にできることなんて何もないよ。

それに、転勤族なら任期もほぼ決まってるし。別れがくると知った上で、どれだけのことができるかっていう話でしょう。

まだ幼い子供がいきなり知らない土地に連れてこられて、さあ!お友達作って頑張りなさいなんて。心細いに決まってるでしょ。

だから、毎日全力を尽くした。これ以上できませんって思えるほどその子のために頑張った。

そのうち、私以外の友達もたくさんできて、少し寂しかったけど、友達は多い方がその子は幸せなんだって言い聞かせてた。

それに、何も知らない場所に行くわけじゃない。もともといた場所に戻るケースが多いから、それで良いんだよ。

私の任務は終わったんだよ。限られた時間のなかで幸せに過ごしてくれて良かった。それなのに、なぜ、相手が泣くのか分からなかった。他の友達のことで泣いているのかと思ってた」

「え?それ、本気なの?見知らぬ土地で最初にできた友達なんだから、お母さんとの別れが悲しくて泣いているに決まってるでしょ。なんでそんなことも分からないの?」

「え、そうかな。でも、仮にそうだったとして、じゃあ、私も悲しいですって、わんわん泣いて誰か喜ぶのかな。それって、意味があるかな。

今日どんなに悲しくても、明日はやってくるんだから、少しでも前を向いてもらった方が良くない?こっちがメソメソしてたら、去りゆく相手も辛いでしょう。だから、ずっと笑ってた」

「そんな理由で泣かなかったの?理屈は分かった。でも、お母さんの気持ちはどうなるの?悲しいとは思わなかったの?」

「泣かないだけで、今まで当たり前にあった時間やぬくもりが、ある日突然、跡形もなく消えるんだから、膝から崩れ落ちるほどの喪失感だよ。今思い出しても、目眩がする。流石に、そういう感情はある」

「嬉しいとか楽しいとかは表現できるんでしょ。なんで悲しみや寂しさはダメなの?

2度と会えないかもしれないのに。小学生の女の子だったんでしょ、好きなだけ泣けばよかったのに」

「いや、だから、マイナスな感情表現なんて、誰のためにもならない。泣く泣かないなんてシステムの問題だから、制御すればいい。あと、人前でメソメソするなんてカッコ悪いから絶対に泣かない」

「・・・」

ついに黙られた。呆れたのだろう。

違う。そうじゃない。その時、その瞬間は、人前では、絶対に泣かないだけ。


自分の場合は、必ず、1ヶ月以上遅れて、後で必ず1人で泣いている。

自転車で10分ほどのところにある河原。

「秘密基地を作ろう」ニヤリと笑いあった時の湧き上がるような高揚感。

こんな時間が続けばいいのにと思っていた。

本当はずっと一緒にいたかったのに。

笑顔の裏で飲み込んだ苦しさと寂しさと悔しさが込み上げる。

心から血が出ている。

砂に顔を埋めて、わんわん泣いた。

泣く理由なんてないのにな。何の意味もないのにな。
この後に及んで、まだ、意地を張っている。

そうやって、子供の頃は、秘密基地で1人で泣いてた。

大人になってもそういうの変わらない。
その瞬間はいつだって笑顔で手を振ってしまう。

というわけで、いずれは鳴く(泣く)けど、目の前で待たれても絶対泣かないし、まして、泣かせてみせようと張り切られても、殺してしまえとか言われても困る。

自分は、遅れてこっそりタイプだけど、そもそも、父のように悲しみを感じにくいタイプもいるだろう。

「冷たい」とか「人でなし」とか。そう思われても仕方ないんだけど。

でも、人になんと言われようと、守りたい領域があるのだ。

できないことはできない。

他のことはちゃんとするから、それくらい許して欲しい。

元ネタを調べても分からないし、解釈が間違ってるかもだけど、

もし「鳴かないホトトギスもいるよね」「このホトトギス、かなり変だけど、別に良くない?」

そういう世界もアリなら、良い時代がきたのかなという気がする。


未来に、ちょっとワクワクする。