慶應義塾大学通信教育過程の記録

文学部1類(哲学)を2020年3月に卒業!同大学社会学研究科博士課程合格を目指します。

ソーシャルデザイン集中講座2023 「TED 社会運動はどうやって起こすか」

日経ビジネス ソーシャルデザイン集中講座2023を受講しています。

https://school.nikkei.co.jp/special/mba_rsd/

現場での体験を経て受講した講座でずが、学びと気づきは想像を遥かに超え今後の人生の糧になると思います。

学術的な内容はいつか記載する予定ですが、

深く心に突き刺さった動画とそれに関する思いを残しておきます。

第一回目の講座で以下の動画を見て号泣してしまいました。

オンラインだったのですが、呆れた子どもが「恥ずかしいでからやめて」とZoomの画像を消すほどの泣きっぷりでした。

TED Talks
社会運動はどうやって起こすか
How to start a movement
デレク・シヴァーズ
https://digitalcast.jp/v/12412/

ご存知の方も多いかもしれません。私も何処かで見た記憶が微かにあります。

なぜ、今回、そこまで気持ちが揺さぶられたかと言えば、初めて1人目になる経験をしたからです。

何十年もその時を待っていて、やるのは今なんだという揺るぎない確信はありましたが、

経験や知識が乏しく戦略もないなかで「根拠のない自信」だけが頼りでした。筋肉マンか!

自分のやり方も良くなかったけれど、筋肉マンは負けてばかりで、

心を抉られるような誹謗中傷も受けました。

せっかく悪口や陰口に対する耐性ができても、邪魔までされて、その時は、さすがに、心が折れそうになりました。

心身ともにボロボロで、自分の人格すら疑い始めた時に、2人目の仲間に出会いました。

まさに、あの動画のように。

なんの前触れもなく。

私の隣に笑顔でやってきて、楽しそうに踊り出したのです。

怖くなって彼女に聞きました。

「無理しなくていいよ。展開が速過ぎたり、ついていけないって思ったらすぐに教えて。それから、私が見えている世界はよく分かんないって、みんなそう言うから。ダメならダメって言って」

「遅くて良いことってある?全部見えてるよ」

泣き崩れそうになるのをこらえて

「ありがとう」の一言をしぼりだした、その瞬間がリアルに蘇りました。

断固たる決意が萎えてしまうほどの、壮絶な孤独と痛み。

辛い時期があったからこそ、彼女の迷いのない笑顔が身に沁みました。

それから、3人、4人と10人と仲間が増えて、やがて大きなうねりになろうとしています。

そんな場面を何度も何度も反芻して、ひたすら泣き続けました。

教訓をおさらいしましょう

まず 彼のように1人裸で踊るタイプの人は 最初の何人かのフォロワーを 対等に扱う大切さを 覚えておいてください

肝心なのは自分ではなく運動だということです でも もっと大きな教訓があります

お気づきになったでしょうか?

最大の教訓は リーダーシップが 過大評価されているということです

確かにあの裸の男が最初でした 彼には功績があります

でも1人のバカをリーダーに変えたのは 最初のフォロワーだったのです

全員がリーダーになるべきだと よく言いますが それは効果的ではありません

本当に運動を起こそうと思うなら ついて行く勇気を持ち 他の人達にも その方法を示すことです

スゴイことをしている孤独なバカを見つけたら 立ち上がって参加する 最初の人間となる勇気を持ってください

ここTEDはそのための最高の場所です

TED日本語 - デレク・シヴァーズ: 社会運動はどうやって起こすか


号泣したもう一つの理由は、

「スゴイことをしている孤独なバカ」

自慢でもなんでもなく、私は幼い頃からそういう人を発見するセンサーのようなものが少しだけ他の人より発達していて、

普段は人見知りがひどいのに、そういう時は、なぜか別人のように積極的になり、一緒に踊らずにはいられないのです。

「遅くて良いことってある?全部見えてるよ」

彼女が言ったあの言葉は、私が誰かに言い続けてきた台詞でした。

知らなかった。2人目のフォロワーは、こんなに優しく心強いものなのか。

今回は、初めて1人目になりましたが、機会があれば躊躇せず、自信と勇気を持って、何度でも2人目の任務を果たしていきたいです。

多分、自分は、そっちの方が向いてる気がします。

今、この瞬間も、スゴイことをしている孤独な人が踊り続けていて、勇気を出して続く人がいる。

そうやって、世界は良くなっていく。そう信じています。

モモちゃんとタイムマシーンに乗って

1997年、So-netのpost petとして誕生したモモちゃんが25年以上の歳月を経て中目黒の街にかえってきます。

https://www.so-net.ne.jp/postpet/information/

モモちゃん♡♡♡

ほんの少しですが、仕事で携わることができ、嬉しくて、最近はあまりよく眠れていません。子どもか!

というわけで、モモちゃんと戯れていた1997〜2000年にタイムスリップしてみます。


衝撃を受けた言葉編

1999年4月、プログラマーの友達
「PCの何が面白いのって意味が分からない。ただの道具だから。これ使って何するかが大事。あなたは一体何しにここきたの?」

入学してすぐに出会った友達。優秀なプログラマーとして学内で名が知れ渡っていました。勢いで情報を専攻したものの途方に暮れていた自分に喝を入れてくれました。

1999年4月、映像機材責任者、Kさん
「消費する側ではなく創造する側の視点を持ちを続けて欲しい。ゲームでもなんでもいいですが、こんなに夢中にさせるなんてと悔しがって欲しい。そして、あなたもいつか悔しがられる側の人間になってください」

2日間の映像研修で疲れ果てて「何のためにこんなことするのかな」という心の声が洩れていて、それに対する答えです。そっち側にいきたいと今でも切実に思っていて、割とそれがモチベーションです。


カッコいい大人編

2000年5月、F電気の課長
「凄い金額の稟議通しちゃった!失敗したらクビ飛んじゃうかもしれない。でも、何も心配してない。君たちなら絶対にやれるでしょ」

産学連携のベンチャーの立上げに関わっていた頃。20代前半の自分たちに常に対等な立場で接してくれました。

リスクを背負って動いてくれた大人達の中でこの課長は圧倒的にカッコよかったです。

会社員とか起業家とか、そういう問題ではなく、結局は自分次第なんだという強烈なインパクトを与えてくた人です。


2000年5月 N社代表取締役
「僕、君のお父さんが大好きなんだよ。君は情報学部なんだからエンジニアとして活躍して欲しい。でもね、地元に戻ればご両親が喜ぶだろうとか、そういう理由だったらだめだよ。本当にやりたいことが他にあるなら断っていいからね。今は、自分以外の誰の言うことも聞かないで」

就職活動に苦戦する私を心配した父からの紹介で臨んだ最終面接。物憂げな表情で寂しそうに笑った横顔が忘れられません。

地元では数社しかない一部上場企業の二代目として責務を全うする傍らで、諦めた夢があったのかもしれません。

まあ、新卒とはいえ、私が喉から手が出るほど欲しい人材ならこんなこと言わなかったとは思いますが。。


2000年6月
「君の家族や大学の仲間達を思う気持ちはよく分かる。でも、全部リセットして、僕たちと新しい環境で新しいことを始めてみないか?」

内定者ソフトボール大会で「こんなしょぼい球がなぜ打てない?」と怒り狂っていた代表取締役の最終面接。

唯一自力で内定まで進んだ会社でした。この一言がなければ、全然違う人生になっていました。

自分で興した会社を背負い続けるにはこのくらいの気概がなければダメなのかもと思いました。


さて、時を戻して、

2023年上半期を心に響いた一言とともに振り返ります。

2023年3月 同年代の友人
「ここから先はあらゆる事態を想定して、その都度指示を出します。かなりの負担をかけますが、無理ならいつでも言ってください。ついてこれますか」

仕事ではないですが、期間限定で業務を手伝いました。尊敬できる上司No.1です。

僅か2ヶ月という短期間でしたが、キレキレの指示に痺れるばかりで、彼女と過ごした日々は、細胞が入れ替わるほどの衝撃でした。

この時期は忠犬ハチ公みたいな顔になってたかも。

2023年4月 メンター的な知人
「物事をスタートさせる心理的ハードルの低さに驚かされます。リスクとか考えないんですか?」

そんなこと考えたこともなくて、指摘を受けて自分の方が驚きました。

怖さよりも好奇心が勝っていて気が付いたら始めている感じです。

自己完結する勉強やスポーツは問題ないですが、人を介する場合は、異常なまでに細かいことが気になるし、他人の言葉に一喜一憂して血みどろになるので、そこは、もう、精神的にやられるのは仕方ないかなと必ず1回腹を括ってます。


2023年5月 子ども
「悔しいのは分かる。僕も同じ気持ちだから。でも、ここで事を荒立てても誰も幸せになれない。苦しいけれど静かに見守ろう」

つい最近まで赤ちゃんだったのに大人になったものだ。。

2023年6月 先輩
「それ以上思い詰めなくていい。やれることは全部やった。後は仲間を信じて時期を待とう」

厳しい局面を迎えて落ち込んでいた私への一言。想定はしていましたが、きつい日々でした。。


2023年7月 ソフトボールチーム70歳の先輩
「これほど短期間にここまで上達するなんて思わなかったよ。偉かったね。一緒に戦おうね」

チームに入って毎回休まず練習に参加して、自主練もできる限りやりました。

この年齢になって、子どもみたいに褒められる機会があるとは。叱られて気合が入るタイプだと思っていたのですが、素直に嬉しかったです。

番外編
2023年4月 自分から子どもへの一言
「普段から自分のために行動して、決断して、思考して、その繰り返しで積み上がった自分自身に対する絶対的な『自信』は、他人が簡単には奪えないんだよ。胸を張りなさい」

どのタイミングで言ったか忘れましたが、自分に言い聞かせていた気がします。

あれですね。

モモちゃんと過ごした25年前に出会ったカッコいい大人達には今の自分は程遠いなあ。

もう、そろそろ、その年齢に達するんだけど、全然、敵わないなあと思います。

さらに、同年代の友人達は、結果も出しているし、みんなカッコいいです。

まあ、でも、他人と比べても仕方ないので。

モモちゃんからさらに遡って、Windows94が出た頃に夢みていた素敵な「大人」を置いていきます。

良い大人と悪い大人を、きちんと区別出来る目を養ってください。良い大人とは、言うまでもなく人生のいつくしみ方を知っている人たちです。悪い大人は、時間、お金、感情、すべてにおいてケチな人々のことです。

若いということは、はっきり言って無駄なことの連続です。けれど、その無駄使いをしないと良い大人にはならないのです。死にたいくらいの悲しい出来事も、後になってみれば、素晴しき無駄使いの思い出として、心の内に常備されるのです。

本当は、他人が他人にアドバイス出来ることなど何もないのです。いかに素敵な無駄遣いをしたか。そのことだけが、色々な問題を解決できるのです。

恋をしたいと思っている人たちは、絶対に大人ぶる。ちゃんとした大人だって、自分を完璧な大人に見せようと思って、強がるだろう。けれど、恋をした人たちは違うのだ。お互いがお互いを子供に戻す。大人に包まれた子供になるのだ。でも、そんな素敵な恋の出来る人って、いったい世の中にどのくらいいるのだろう。

放課後の音符


恋愛の部分はあまりよく分からないですが、

振り返ってみれば、25年前に憧れた人達は、みんな子どものような瞳をしていました。

気持ち良いほど真っ直ぐに、明日に飛び出そうとしていました。

そんな感じで、これからの日々を積み重ねていきたいなと思います。

ピューロローローンというWindows98の音を聞きながら眠りにつき、

僅か10秒の動画編集にも耐えられず、落ちてしまうiMacに「可愛いやつめ」と苦笑いしながら

夢みた未来は、

誰かの手によって現実となりました。

IT環境がある程度整備され、ここからの20年は、いわゆるコンテンツ、ヒューマンライフ、人類の根幹に関わる問題にメスが入るでしょう。

かえってきたモモちゃんと一緒に、これからの未来を歩いていきたいです。

そして、目の前の責任を果たして、いずれは、必ず、そっち側の人間になりたいです。

3度目の完全試合

20年振りにソフトボールをやりました。

ボールを受けた瞬間の微かな痛み、
ノックを待つ高揚感、
バッティングで左右間抜けた時の快感、

もう、一生ソフトボールはできないだろう。

そう思っていましたが、

練習は隔週日曜、試合もある
夢のようなチームに入れてもらうことができました。

頑張って生きてきて良かったです。




ところで、私は、
ピッチャーどして2回完全試合を経験しています。

と言っても、見た目や日頃の生活態度から
あまり信じてもらえないので、
ちょっと状況を整理しました。

ソフト部の方ごめんなさい!
素人の大会なんで!!

1.それはいつですか?
・中学1年生の球技大会
・大学4年生の内定者ソフトボール大会
インターハイ予選とかそんなんじゃないです!

2.ソフトボールや野球の経験はあるのですか?
 
経験?うーん。

・村のソフトボールチーム
 夏期のみ土日含む毎朝2時間×5年間、約400時間
 

・弟の野球の練習相手
 7歳〜12歳までの5年間、ほぼ毎日約2時間×5年間、3600時間

 13歳〜18歳までの6年間、週1回約2時間×6年間、720時間、

合計4720時間!

時間にすると恐ろしい練習時間になりますが、
部活でも習い事でもないので・・素人です。

弟が高校球児で、硬球になってからは、
怖くて、ほぼ一緒に練習してません。

3.どういう経緯でピッチャーになったのですか?
 だいたいいつも男子6名、女子3名のチーム編成で、
 「弱そうやし守備とか無理やろ」
 「仕方ない。お前が投げれ。みんなで守ろう」
 全てこの流れで投げています。

4.秘策はなんですか?
 ・遅すぎてヒットにならない速度の球を投げる
 ・自分とセカンドでさばける範囲に打たせる角度に投げる

 ・打撃は、近すぎて守備が間に合わない場所に転がして無理やり塁にでる、普通に思いっきりヒットを打つ、これを延々と繰り返す。

・マウンドに立ったら素人だしと言い訳しない。10年以上の歳月をかけて誰よりも長く練習してきたんだと自信を持つ。

5.なかなかに姑息ですね。試合はどう流れるのですか?

 5回ゲームセットの試合で、
 3回までは普通に過ぎていきます。 
 4回でざわめきが起こり、流れが変わります。
 敵は焦り、混乱し、苛立ちます。
 味方は「歴史的瞬間に立ち会えるかも」と興奮します。
 5回はやる気なかったみんなが勝利を確信する。
 この時の一体感が大好きです。

姑息?ルールにのっとった上で、
 可能性を追求しているだけです。

 身長は165センチ以上欲しかったし、
 もっと肩が強ければとか、筋肉質なら良かったとか。
 それ言っても、何も始まらないので。

6.ヒットを打たれたことはあるのですか?
 何度かあります。2度目の完全試合の後、
 最終回に代表取締役に打たれました。
 「貴様のボールは見切ったんだわ!」と叫びながら。

 途中、代表は、こんなしょぼい球なのにと本気で怒り狂っていたので、いよいよ内定取り消しかなと思いましたが、

負ける方が嫌だったので真剣に勝負しました。

1ミリも譲る気はなかったです。

打たれたら切腹するくらいの気で投げてました。

まさか、打たれるとは。

泣くほど悔しかったけれど、こういう人の下で働けるのは幸せだと思いました。

諦めない人はカッコいいですね!

7.振り返って思うところはありますか?

一番弱い人が一番可能性を持ってるんだよ

敵が警戒できる人数には限りがある

弱い人が予想外の動きで壁を打ち破れば
 一気に風向きが変わる。勝利への活路が開く

鬼滅の刃より

自分の役割は、そこにあるのかなと思っています。

身体も小さくて運動神経もイマイチな自分に、全てが託されている、

そういうことにして、流れを自分が作っていく。

それを、どんなスポーツよりも実感できるので、
やっぱり楽しいです。

さて、過去の遺産の話は終わりです。

未来の話をしよう!

課題は3つあります。

・遠投
 セカンド以外のポジションからファーストへの送球が届かない。

・フライ
 気持ちと経験の問題。
 セカンド以外やったことないのでとにかくこわい。
 
・バッティング
 球は当たるけれど軸がブレてしまう。
 身体がバットに引きづられてしまう。

新参者がいきなりピッチャーやセカンドはやらせてもらえないでしょう。

さすがに、キャッチャーは、自分には無理なので、

キャッチャー以外どこでも使いものになるように、秋の大会までには、3つの課題をクリアしたいです。

そのために、

1.遠投
 肩・肩・肘が一直線になるように意識する。
 動画でみた練習方法でフォーム固める。

 ホームセンターで購入した秘密兵器。
 ちょっと物騒ですね・・。
 

2.フライ
 ①ボールの下に素早く入る
 ②送球前提の半身で取る。
 ③取る位置はオデコの上。ギリギリまで球をみる。
 練習はこれを意識してひたすら実践。
 
3.バッティング
マイバットを買えば良くないか?と一瞬思いましたが、
とりあえず、おさらい

①平行スタンス
②両目でピッチャーを見る
③軸足(お尻)に体重をのせる
基本を思い出して実践あるのみ!

素振りは利き手と逆の手で。

チームの皆みなさんは、

今まで出会ったことのないようなタイプの人たちで、
ものすごくワクワクしました。
 
どこのポジションでも任されるように努力して、
試合や練習で信頼してもらって、

いつかは、3回目の完全試合がしたいです。


追記

6月3週目
送球かなり改善されました。
ショートからはノーバウンド、
サードからは50%くらいは届くようになりました。
最近の動画コンテンツは凄い!
バッティングはフォームそのものを見直す必要あり。
フォームが固まったらバッセンで実践練習。
現状、トスバッティングでかなり足を引っ張ってるので、次回はみんなと同じレベルまでいけるように。

6月4週目
トスバッティングは練習の足を引っ張ることはなくなりました。ただ、当てた後に振り抜けていないので、打上げてしまう。後半のフォームを改善して、次回はまともな打撃ができるようにする。時間あればバッセンでチェック。遠投のフォームは続行。良い感じです。フライの恐怖心もなくなってきました。とにかくスタミナ足りてないので真面目にご飯を食べる。

7月2週目
真面目にご飯を食べて体重を42キロまで増やしたおかげで、へばらず最後まで練習に参加できました。これは嬉しい。フリーバッティングでは普通にヒットが打てるようになり、サード、ショートの守備にも慣れてきました。経験者のみなさんの専門性の高いアドバイスの素晴らしさに驚くばかりです。次回7月最後の練習までに、総復習して、基礎を固めて、出来ればバッティングセンターに通って、秋の試合に向けた手応えを掴みたいです。

7月4週目
「芯で捉えられるようになったね」「音が前と全然違う」バッティング褒められました。指導のおかげです。この感覚を忘れないためにも、次回8月4週までに最低週1回はバッティングセンターに通います。毎日行きたいと思いながら日々予定が詰まって2週間行けなかったので、日時を決めて、そこに向けて仕事や予定を調整します。貧血でてきてるので、検査して必要なら造血剤を飲むこと。守備は課題がかなりあるので、グローブさばきなど動画をみて改善します。

最後の科目とこれから

目標にしてきた認定心理士まで学科1科目+実習。
最後の課題提出を終えた。

無我夢中で勉強してきた日々は一瞬で、
慶應通信もそうだけれど、
終わってしまうのはとても寂しい。

どうして勉強を続けているの?
と聞かれるとただ照れて、
「好きだから。それに、活字中毒だし」

それはそうなんだけど。
誰にも言えなかった答えがひとつある。

約束を果たすため
最近ようやくスタートに辿りついた。

いい加減、腹を括らなければいけない。
ブレブレの気持ちを今一度立て直したい。

nnaho.hatenablog.com

物心がついた3歳くらいから

世界の果てはどこにあるのか。
時間はなぜ過去から未来に流れるのか。
なぜ、自分はここに生まれてきたのか。

地球儀をぐるぐる回しながら、そんなことばかり考えていた。

幼稚園に入れば、
話せる友達に出会えると信じていた。

健全な幼稚園児はそんなこと興味がない。

がっかりした。

さらに、カトリック系の幼稚園で、お祈りがある。

それは本当に許せなかった。
なぜ何の説明もなくお祈りを強要するのか。

そんなの魂の冒涜だ。

記事にも書いたが、他にも思うところがあり、
2年間、自分のやり方で徹底的に戦った。

しかし、あまりにも辛い日々に疲弊していた。

潮時だ。

これ以上戦っても誰も幸せにならない。
自分の気持ちを一旦捨てることにした。

真面目に幼稚園に通おう。
生まれてくる弟や大事な家族のために。

地に足をつけて、この世界に馴染むんだ。

道路脇にはまだ雪が残っていた。
ザクザクと踏みしめながら決意した。

でもね、覚えておいてよ、悔しい気持ちを。
子供にも明確な意思があるって。
みんなとちょっと違う子供の叫びを、
受け止めらるシステムを作って欲しい。
無い物とカウントして踏みつぶさないで欲しい。

絶対に忘れないで。

戦いは中断するけれど、必ず帰ってきて。
時期がきたらここに戻ってきて。
それがあなたの仕事だから。

未来の自分に託した。
昨日のことのようだ。

大人になって、
自分のような子供は沢山いることを知った。

心理学的にこういった「異界」への興味は前思春期に訪れるものだから、
自分の場合は、単に「早熟な子」
ただそれだけで片付けてもいいのかもしれない。

いや、違う。それが、最悪なんだ。大人が勝手に片付けないでほしい。
ちょっと早熟な子、ちょっと変わった子が経験する、

想像を絶する孤独と不安、絶望、
そして圧倒的な才能にも、しっかり目を向けて欲しい。

正面から向き合って欲しい。

問題児のレッテルを貼られて、親を悲しませるために、そんなことのために生まれてきたわけじゃない。

変人と呼ばれる子どもたちが胸をはって笑える世界に加担したい。

あれから長い年月が過ぎた。

真面目に学校に通って勉強やスポーツに励んだ。

人付き合いはあり得ないくらい苦労した。
そもそも、スタートからずれているんだから。

それでも、周囲の手厚いサポートのおかげで、
孤独を感じることなく幸せに過ごすことができた。

約束を忘れたわけではなかったが、
目の前の世界に馴染むことで精一杯だった。

そんな日々ではあったが、
直観的に、これは突破口になる!と確信する出来事がいくつかあった。

幼い頃から父は、
「もうすぐお金のない世界がやってくるんだよ」
そう言って家族から呆れられていた。
でも、私はワクワクして仕方がなかった。

父の書斎には、ハイエクの「貨幣の非国有化」があったかもしれない。

また、当時エンジニアだった父は頻繁に会社に連れて行ってくれた。
システム物流を担う1980年代の巨大なコンピューター。

ンゴゴゴゴゴゴーン!ンゴゴゴゴゴーン!

大きな唸り声は未来への序章。
ここはそう、センターオブユニバース

当時、上手く言語化できなかったけれど、
テクノロジーは突破口になるに違いない。

限りない可能性に胸が震えた。

しかし、高校生を経て大学に入り、約束は遠のいて次第に忘れていった。

nnaho.hatenablog.com

この志望校というのが、情報学部だった。
猛勉強したが、試験を受けた時点で、そこまでの執着はなかった。

何かに突き動かされている感覚はあったが、それが何なのか分からなかった。

順調に試験を受け、
最後の面接で人生を変える事件が起こる。

準備した志望動機をすらすらと話して安堵していると、
優しそうな面接官が口を開いた。

「君の志望動機は論理的だしすごく良い。でも、僕は違和感を覚えた。もちろん、君が嘘をついているとは思わない」

な、何を言っているの?

「君の言葉で、本当の志望動機を話してくれないかな?」

「本当の志望動機・・ですか」

そう、その瞬間に、幼い自分が足元にやってきた。
すっかり忘れていた。

そうか、あなたがここまで連れてきたのか。

「子ども、子ども達の未来が・・」

言葉にならなくて、もどかしくて、あろうことかその場で泣き崩れた。

「ごめん、泣かせるつもりじゃなかったんだけど」

他の面接官たちの呆れた視線を受けて、慌てふためいていた。

コンピュータ犯罪の最も権威ある先生だと後で知った。

流石だと思う。自分の人生を変えたと言っても過言ではない。

安西先生、この大学で未来の子ども達のためにITが学びたいです」

そうか、それが答えだったのか。
帰り道は清々しい気持ちでいっぱいだった。

いつの間にか忘れていた夢や自分との約束を思い出して笑ってしまった。

「しかし、号泣した時点で合格は無理だな。次行こう!」
気持ちを切り替えて、他大の試験対策をしていると合格通知が届いた。

迷いはなかった。

nnaho.hatenablog.com

結論から言うと、
情報学部で学んだことは、
仕事にも夢にも直接的にはつながっていない。

でも、不思議と焦りは全くなかったし、
膨大なパズルに何十年も日々ピースを入れている感覚だった。

仕事も慶應通信も、日々の生活も。

自分では、伏線が全部つながると信じていたし、

絵は描けていたから、
別に良いかなと思ってここまできた。

学びはエッジでしかなく、終わりがない。
まだまだ足りないという渇望感。

ここまま学び続けるのも幸せな人生ではないか。
コロナ禍もあり、慶應の卒業時には、甘い気持ちにもなっていた。

そんな時、進路の相談をしていたOBが本気で叱ってくれた。

「院進がダメだとは言ってない。でも、あなたは一生蹴鞠をけって遊んでいるつもりですか?」

実学の意味を分かっているのですか?」

目が覚めた。

そうだ、いい加減、あの子を連れにいかなきゃいけない。

奇跡を待っていても仕方がない。自分から起こしにいかなければ。

3年でようやく基盤ができた。
周囲の人には感謝しかない。

具体的なことはまだ書けないけれど。
とりあえず、あの子を迎えに行ってきた。

「遅くなってごめんね。本当は大学卒業したらすぐって思ってたのに。私、コードもかけないし何もできなくて。時間めっちゃかかってしまった」

「何寝ぼけたこと言ってるの?今、世界で何が起こってるか分かってる?20年前に迎えに来ても意味なかったから」

「遅すぎない。早すぎない。ちょうどいい。よく間に合わせてきてくれたね。今が最高なんだよ」

そんな会話をかわして思った。
世の中に馴染もうとして自分は随分アホになったのではないか。

過ぎたことはもういい。
学んだことを生かして残りの人生で恩返しをしたい。

春の陣

詳細は書けないのですが、友達の大きな挑戦が見事に成功した。

友達といっていいのだろうか。知り合ったのは僅か半年前。偶然、何度も会う機会があり何時間も話した。

カフェでも居酒屋でもなく、冬の寒空のしたで立ち話。特に、これからの子ども達の教育に関してはとどまることがなかった。あまりにも夢中になりすぎて、彼女の歯科の予約時間を逃したり。

年齢も同じで、進学や結婚した時期も同じ、大人として出会っているのに、話し始めると、セーラー服を着ていた中学生に引き戻された。

そうだ、自分はいつも、彼女のような人がそばにいてくれて、それで、なんとかやってこれた気がする。

子ども時代、自分から手を上げることは絶対にないけれど、頼まれごとを断らないと決めていたせいなのか、キャプテンとかリーダーとか器以上のことを背負ってばかりだった。そして、どれだけ辛くても愚痴や弱音を人に吐くことができなかった。

傷つきやすいくせに、人にも頼れない、四面楚歌で、なかなかにしんどい日々だった。そんな時、自分より難しい現実と向き合いながら、さらなる理想に燃える彼女のような存在こそが、自分にとって癒しであり、たったひとつの救いだった。


ベタついた友達関係は一切なく、時々、一緒に帰ったり、なんとなく立ち話したり。「バレー部揉めてるけど、そういうの、部長としてどうなの?しんどくないの?」「えっ?そんなことより、読んでほしい本があるけど貸してあげようか」「嬉しい!読みます!」バレー部あんなに揉めているのに、そんなことなの?強いなあ。私の直面してる問題はなんて小さいんだろう。とにかく本読んで元気を出そう。その繰り返し。

彼女に会うたびに、そんな昔の自分と思い出が重なった。

さらに、思い出に浸るだけでなく、今ここにないけれど、彼女がつむぎだす世界がはっきりと見えた。彼女は、歴史に名を残すことをやってのけるだろう。しかも、それは、自分や家族など狭い範囲ではなく、社会や未来のため。

みえたらもう、無視できない。

これから先、彼女には、何千、何万という仲間ができるに違いないけれど、それまで。今、この瞬間からそこまでを支えたい。

できることは何でもしたい。

そんな気持ちで駆け抜けた2ヶ月だった。

まさにその期間は、自分自身、最も苦手な人間関係の課題が山積し、仕事や勉強にも追われて、もう無理、もうダメと限界を感じることばかりだった。

それでも、戦国武将のような彼女と話すたびに勇気が湧いた。

なにも命を取られるわけではない。誰かに嫌われたからってそれがどうした?失敗したからってそれがなに?泣くな!動け!背中を蹴っ飛ばされる日々だった。

彼女から「今まで本当にありがとう」お礼を言われたけれど、いやいや、お礼を言うのは自分のほうだ。弱い自分に喝を入れてくれて感謝しかない。

物語は始まったばかりだ。彼女が描いた理想に近づけるように、私も自分のポジションで精一杯尽力していきたい。

そういえば、彼女だけでなく、自分の周囲を見渡してみれば、大人になっても、実力以上の勝負にでたり、夢に賭けている人ばかりだ。その背中をみて、時に会話をかわすことでどれだけ救われただろう。

自分の苦しさや辛さを吐き出すことなく、飲み込みながらも、前向きな気持ちになれたのはそんな友達のおかげだ。大人になるのも悪くない。そんなことをあらためて思わせてくれた日々と彼女に感謝しています。

最近受けた試験の話

「入学して2年経過したので放送大学慶應通信を徹底比較します!」みたいな記事を書きたいのですが、まとまらないのでまた今度書きます。

最近、ある試験を受けました。

主催する協会の方も役所の方もみな知り合いというなかで「失敗は許されない!なんならトップで受からんとダメでしょ!」と勇気凛々で申し込んだのは2ヶ月前。

少しでも時間があれば過去問を問いていましたが、そもそも問題が循環してる可能性が低いのに、答えを暗記して意味があるのか?それ以前に基礎的なことを理解できていないのでは?やってもやっても不安は積もるばかり・・。


大人の試験あるあるで、1ヶ月を切ったあたりから、仕事や重要な頼まれごとが驚異的に増えて、試験対策に本腰を入れられる状態になったのは、なんと3日前。


論述も2題あるので、すっかり怖気ついてしまいました。

最低10個の用語に対して300文字程度は暗記しないといけないのね・・ええっ!最低3000文字?!


流石に弱気になり、試験のスペシャリストみたいな友達に連絡して喝を入れてもらって冷静に。

焦っても仕方ない。やれることを全部やって可能性を追求しよう。

自分はテキスト何周しても、暗記なんてできないんだから、いつものやり方でやるしかない。

受かって終わりの試験ではないので、後々まで使えるノートを作成することに・・。

放送大学はコロナ禍でずっとオンライン試験。

対面の試験っていつ振りかなと思ったら、なんと2019年7月の慶應通信Eスク2科目受験以来。

約4年振りだなんて!

あの時は、落としたら卒業が伸びる!と追い込まれていたので、本当に緊張したなあ・・。

卒業してしまうと、楽しい思い出ばかりで、苦しさや辛さなんて全部忘れてしまいましたが、毎回、4〜6科目もよくやったものだ。

慶應通信で大変だったこと?うーん。勉強好きやしね」なんて、しれっと答えてきましたが、本当によくやり切ったね。偉かったね。と自分を褒めてあげたい。

前日も朝から晩まで予定があり、寝る間を惜しんで追込みをして、ふらふらな状態で会場に。

子ども達が大きくなり「ちょっと、あなた(試験とか試合とか)大丈夫なの?準備できてるの?」的な声かけが増えましたが、

自分自身にこそ「大丈夫なの?準備できてるの?」と日々問いたいものだと切に思った。

子どもにとやかく言えるほど、自分は完璧ではない。

これでは満点なんて無理かもしれない。それどころか不合格だったらどうしよう。メソメソ泣きながら会場に入った。

「おおっとエース登場です」知り合いの受付けの方に声をかけられて、ようやく、我にかえった。

そして、全力で試験を受けた。

分かっている限りでも、

3問、間違えたけれど、

全てを答案に置いてくることができた。

満足だった。

清々しい気持ちでいっぱいだった。

家族や友達など周囲の人たちの温かい心遣いが嬉しかった。

ここがスタートなんだ。

自分の未熟さや無知さを思い知れるから、

未知の可能性に胸が震えるから、

生まれてきて良かったと思えるから

だから、試験が好きなんだ。勉強が好きなんだ。

例え、将来教える立場になっても、どこで何をしようと、最後の瞬間まで、未来にワクワクして、何かしら挑戦して過ごしたい。

それが自分にとって生きることなんだと思う。

そんなことを再確認した2ヶ月でした。

全国の受験生のみなさん、お疲れ生です!!
慶應通信及び放送大学のみなさん共に頑張りましょう!

ギフト

幼稚園からの同級生が「宇宙ビジネス」に関する本を出版し高い評価を得ている。

ポチッとしようとした瞬間、

「前から思っていたんだけど、母が通っていたのは中高一貫の名門私立とかじゃないよね。同級生みんな凄くない?」

「人口3万8000人の市立中学だけど・・そう言われるとそんな気もする」

小学校の同級生には、オリンピック日本代表選手が2人いる。1人は引退後も世界的に活躍している。

その影響なのかなと。

自分は凄くないですが、

2人からもらった大切な贈り物について少し振り返ります。

競技はフィールドホッケー

競技人口は世界で3,000万人なので、サッカーや野球に比較すると、まだまだマイナーなスポーツなのかもしれません。

育った市は「ホッケーのまち」として知られ、母校には昭和天皇がホッケーの試合を観覧する写真が飾られていました。

毎年5月に市内4校6チームがそれぞれの小学校の威信をかけた試合が開催されます。

近所の運動神経抜群のお兄さん、お姉さんはみんな選抜選手として活躍し、そのまま続ければ、全中やインターハイも普通に出場する。それが当たり前でした。

そうは言っても、特別に優れた運動能力もなく身体も小さい自分には関係ない話でした。

あの日、あの瞬間までは・・

5月の昼下がり、5年生だった私は、ぼんやりと、6年生の大会を見ていました。

表彰式が始まったところで、今まで経験しとことのない衝動に駆られます。

事もあろうか、男女ともに、自分の小学校の先輩が表彰台にいない、

男女2チーム、計4チームで臨んでいるのに?市内一のマンモンス校なのになんという雪辱。

そこで、どーんと何かが降りてきます。

「私がやる。来年、必ずトロフィーを取り戻す。メダルも戴く。表彰式のコメントは何にしようかな」

もう、めちゃくちゃです。どうした、どうした。

「学校選抜のホッケーは、エリート達で作るチームだから、あなたはお呼びではないんだが。頭は大丈夫なのか」

理性的なもう1人の自分が必死で諭す。

門徒は開いている。できない理由がない。私はやる」

「剣道はどうするの?インターハイ出れるぞって期待されているんでしょう?」

「両立する。インターハイまで7年。ホッケーは来年。サッカーやミニバス続けてる先輩はたくさんいる」

「だから、それはエリートの・・しかも、6年生は男女ともに負けたし!」

「うるさい!やると言ったらやる。あのトロフィーは私が取り返すのだ!」

一体全体、どこの誰が降りてきたのか・・。

もう1人の自分と同じやり取りを母と交わして、

「大丈夫!母に心配はかけない。怪我は絶対しない。勉強もお手伝いもちゃんとする。何卒お願い致します」

いつものように締めくる。

「分かった!すぐにやめて良いからね!」

「うん!ありがとう!」

やめる?何言ってるんだ。来年の今日、メダルを持って帰るというのに。おかしなことを言う母だ。

こんな感じで、誰かが降りてくると、それはもう、止められません。

そして、夢のような1年がスタートしました。

初日の練習は今でも忘れられない。

学校から直々に声がかかったエリートが8割、自分のような庶民が2割。

アップダウンのある坂道含めた3キロほどのインターバルトレーニングだったと思う。

いきなりこれか!きっつ!心臓が口から飛び出しそうだ。

肩で息をしていると、周囲も同じように、みなぐったりしていた。

エリートでもきついのか・・少し頬が緩む。そこで、先生の口から名言その1が飛び出す。

「おまいらしんどいか!辛いか?苦しいか?なでもな、これ1年続けてみろ。どんな身体になると思う?」

どんな身体・・?まず現れたのはスーパーサイヤ人孫悟空。うはー!ワクワクが止まらないぞ。

そして、大好きなサウザーが空から飛んできた。

ムッキムキの身体にメダルをかけてもらう自分の姿が浮かぶ。最高ではないか!楽しみすぎる!

間違っている。誰か止めてあげて。

初日からボロッボロになった身体を引きずって、ニヤニヤしながら家に帰った。

母は苦々しい顔をしていたが、怪我はしていなかったので何も言わなかった。

次の日、ウキウキしながらグラウンドに行くと、みんな辞めてしまって、庶民は自分とあと1人だけだった。

こんな素敵なチャンスをなぜ無駄にするのか。不思議に思いながらスティックを握りしめた。

ドリブル、パス、シュート、庶民なんだから、エリートと同じように練習しても意味がない。

日が暮れるまで学校で練習して、家に帰ってからも、基礎を繰り返した。

夢中で練習しているうちにあっという間に夏が来た。この頃はとにかく楽しくて仕方がなかった。

先生を相手にシュート練習をしていた時だった。

その日はうだるような暑さで、限界はとうに超えていた。昭和の部活は基本水が飲めない。

これ外したら次やる気力も体力もないな。多分気を失って倒れる。そんなことを思いながらドリブルでゴールに向かう。

かわされそうになった瞬間。いやだ。これ決める。絶対決める。いやだいやだいやだいやだー!

気がついた時には、先生ごとゴールに押し込んでいた。

およそ2倍以上の体重差。ボールと先生はすっぽりゴールにおさまっていた。

やったぜ!これで一抜け!いや待て、先生は無事なのだろうか。

最初は放心状態だった先生は、我に返り、私の目を真っ直ぐに見て、飛び切りの笑顔を見せた。

こんな子いたのか・・やるやん!多分そんな感じ。

男女合わせて30人。やっと先生の目に止まった!これが、無口で地味で小さな自分の最初の見せ場だったように思う。

それから秋の新人戦が終わり、あっという間に冬がきて、3月になった。

狂ったように練習を積み重ねてきたおかげで、試合では、相手の動きが止まって見えるようになった。

パスの位置も感覚で掴めるし、シュートを外すことも滅多になかった。

「じっちゃん、オラ、強くなってる?」

いや、目的はあくまでトロフィーの奪還。
謙虚に行こう、最後まで気を抜くまい・・。

そんなある日、3ヶ月後に控えて、メンバーが正式に発表された。

私はなんと1軍のキーパー、しかも、他のメンバーと違って自分だけが固定だった。

正直ショックだった。

待て待て!勝つために練習してきたんだ。シュートを何万本打ち込んだと思っているんだ?

何故に私がキーパーなのか・・。

撫然とした気持ちが拭いきれないまま試合にでる。私の前を守るバックスこそが、後のオリンピック日本代表、ゆうちゃんだった。

ゆうちゃんは当時からキレッキレで、バックスであるにも関わらず、稲妻のようなシュートを決めたかと思えば、光の速さでゴールに戻る。

指示も的確で、ゲーム運びも完璧。

練習試合では、私が働く必要は全くなかった。ボールに一切触らなくてもチームは勝っている。

これはこれで、なかなかに辛かった。まず、怖い。とても怖い。1回のミスが致命傷になる恐怖。

練習の成果が試せない恐怖。

今のようにYouTube動画などあれば良いが、当時は先生もキーパーに関する知識はほぼない。

何をどうすれば上手になれるのか。検討もつかないなかで、不安を払拭するために、プロテクターを付けた状態で自分の体をいじめ抜いた。

日々の練習で恐怖や悔しさを口に出したことは一度もなかったが、

そんな私の弱さを見抜いていた人がいた。

それが男子のキャプテン、もう一人の後の男子日本代表の日向くんだった。

彼は時間があれば自分のところにきて、いきなり何本もシュートを打ち込み、

「おい、ヘボキーパー。お前なんかさ、どうせボールに触らなくても勝てるんだから、いてもいなくても同じだよな。キティちゃんでも置いとけば?」

「なっ、なにを?」

悔しさと悲しさで視界がかすむ。なんでそんなこと彼に言われなければいけないのか。

そんなこと、自分が一番わかっているのに。

でも、立ち止まるわけにはいかない。自分にはトロフィー奪還という使命がある。誰にも頼まれてないけど。
泣いたら仲間が心配する。そう思って歯を食いしばって聞き流した。


絶望ばかりでもなかった。
雪が残る3月のグラウンドで一人で自主練習をしていると日向くんではなく、先生がやってきて、静かに話し始めた。

「お前は誰よりもうまい。どこのポジションでもだ。それは俺が証明する。でも、お前は誰よりも根性がある。だからキーパーにした。頼むね。寒いからこれ着て風邪ひかないでね」

雪国の春は遅い。先生の上着は小さな自分には大きすぎたが、泣きたくなるほど温かかった。

本当は子どもなりに分かっていた。本番まで3ヶ月。常に120%の力を振り絞って練習してきた自分と比較して、他のエリート達はそこまでの熱量で練習していない。

つまり、伸びしろがまだある。ここから爆発的に伸びる可能性を秘めている。分かっている。そんなこと分かっている。

それでも、現実を受け入れるのは本当に辛くて苦しかった。

自分のシュートで、パスで、ドリブルで。

何本もシュートを打ち込んで、あのトロフィーを奪還したかった。

ただ、それだけのために、心臓が壊れるほど毎日走ってきたのに。誰よりも早くグラウンドに立って、誰よりも多くのシュートを打って。自主練も欠かさなかったのに。

拳を握りしめた。血が出そうだった。今、決めなければいけない。決めたら、進まなければいけない。そして、約束は守らなければいけない。

「はい!わかりました!」

真っ直ぐに先生の目を見て答えた。先生のほっとした表情を見逃さなかった。

嘘が下手な人だと思った。子どもを舐めてはいけない。何だってお見通しだ。

でも、その真心が嬉しかった。事実はどうあれ、先生がそうだと言ってくれるならば、それを信じ抜いて、役割を全うしようと思った。

そこからの日々は、さらに、記憶がない。日向くんだけでなく、2軍の女子メンバーからも、なかなかに辛辣なことを言われ続けた。

自分に果たすべき役割がある。いちいち反応している暇などない。そう思って学校では全力で聞き流した。

そして、夜寝る前に思い出しては、布団に入って、キティちゃんを抱きしめて泣いた。プレッシャーに押しつぶされそうなのに、外野の声がさらに胸を掻き乱す。

仲間の優しさと「お前が一番根性がある」先生の言葉だけを抱いて眠りについた。



そして、試合当日。優勝はできなかったが、トーナメント選を勝ち抜き、見事に、トロフィーを奪還し、胸にはメダルがかけられた。

やっと終わった。描いた未来に追いついた。ただただ、安堵した。

その後、全国大会を経て、ようやくホッケーに没頭する日々が終わった。

何気なく、校長室の前にある展示ケースのトロフィーを眺めていて、恐ろしい事実に気がついた。

優勝した男子のトロフィーは3倍以上の大きさがある。

「ああ!なんてことだろう。伝統に恥じぬ戦いをしたはずなのに、トロフィーの大きさとメダルの色について何も考えてなかった。これって、かなり重大な過失なのでは」

威勢はいいくせに、肝心なことが抜けがちな自分の性格は分かっているつもりだったのに、これは、かなりの失態だ。子どもながら膝から崩れそうになった。

そして、考えた。もし、あの時、

「お前なんかいなくても、キティちゃん置いとけば良くない?」

そう、日向くんに言われた時、

「キティちゃんのままでは困るから、もっと上手になりたいから、打ち込みの相手をしてくれないかな」

そう言えば良かったのではないのか。

日向くんは後のオリンピック日本代表だぞ。女子の監督も務めている。

私は彼が大嫌いだったが小学生の頃からそれはそれは凄い選手だった。

そんな彼に10本でも、1000本でも、1万本でも打ち込んで貰えば、きっと、もっと上手になっていたに違いない。

そして、決勝ですり抜けていった2本のゴールを守りきれたかもしれない。

メダルの色も変わっていたし、トロフィーの大きさも違っていたかもしれない。

全国大会では、もう少し、何とかなっていたかもしれない。そう思って、また、泣きたくなるのをグッと堪えた。

そう、きっとそうなんだ。

Facebookのタイムラインが流れるたびに、時が戻る。

「キティちゃんでも置いとけば良くない?」日向くんの声がする。

ゴールをすり抜けていった鈍い音とともに、負けた悔しさが蘇る。

「お前は1番根性がある」先生の声、仲間達の優しい笑顔、もっと上手になりたかった、もっと練習して役に立ちたかった。

1点も許したくなかったのに。あんな思いは2度としたくない。

唇を噛み締める。そして、今日をもっと良く生きたいと切に願い、次の一歩を踏み出す。

そうだ、やはり、日向くんの仕業だ。ほんのひと時、ホッケーという限られた時間と場所で戯れた自分ですら、このざまだ。

彼と多くの時間を共にした、同じチームの仲間やクラスの男子達は、もっともっと大きな影響を受けているに違いない。

世界で一流の仕事をして、責務を果たし続ける彼の姿をFacebookで目にするたびに、追いつき追い越したいと思うだろう。

それぞれの持ち場で、日々の熱量をあげていく、そんな積み重ねが、

「なんか母の同級生凄くない?」

につながっているのかもしれない。




さて、あと少し続けます。

本当に私はキティちゃんだったのか?今になって思う。

当時は本気でそう思っていました。

そして、仲間のために上手になりたいと願ってもがき苦しんでいた。

でも、例えば、自分がキャプテンでバックスのゆうちゃんだったとして、自分の後ろに、自分と同じかそれ以上に勝ちたいと願っている仲間が、自分と同じかそれ以上の時間を練習に費やしてきた仲間が控えていたら、

こんなに頼もしいことはないのではないか。

同じクラスなのにほとんど話したことがなかったが、試合ではゆうちゃんはいつも優しかった。

1本ゴールを守っただけなのに、そのたびに、チーム全員で取り囲んで、

「ありがとうね、本当にありがとう。これ入れられたら、私たち2点入れないと勝てなかったよ。ありがとう」

「そうだよ。よく守ってくれたね」

そうだ、この温かい仲間の言葉があったから、どれだけ怖くても、苦しくても、コートに立ち続けられたんだ。

上手いとか下手以前に。信頼や絆がそこにはあったのではないか。

もう少し、自分に優しくなって誇りを持っても良かった気がする。

そして、1年間の練習を経て、サウザーのようにムキムキになることはなく、長距離が得意になり、マラソン大会の順位が上がったとか、まあ、身体そのものは、特に変化はありませんでした。

現実はこんなもんだよな・・

そして、中学校に入学した日、怖い先輩数人に呼び出されます。

「試合で何度か会ってるよね。当然、部活は剣道部だよね。待ってるから絶対来なさいよ」

「はあ?この子ホッケーやってるの知らないの?うちのキーパーなんだから、剣道部に入るわけないじゃん」

2年生の先輩が睨み合います。

やばい。スポーツ漫画じゃないか・・。

まさか、こんな自分に、こんな奇跡が訪れようとは。

「ちょっと、何涙ぐんでるの?剣道やるんだよね」

努力は人を裏切らない。サウザースーパーサイヤ人にはなれなかったが、ただ、ただ、嬉しかった。


きっと、誰もが、決められなかった1本のシュート、

守れなかった1本のゴール、口にできなかった一言を悔やんでいる。

大人になっても消えることなく鮮やかに胸をえぐる傷跡がなくなることはない。

今だって、悔しすぎて涙が滲む。

でも、その傷跡があるから、優しくなれるし、強くなれる。


メディアに出たら偉いとか、成果物がどうとか、キャリアがどうしたとか、そういう話ではなくて。

今、ここに生きている、生まれてきて良かったと思える瞬間を積み重ねていくことが、昨日の自分を追い越すことが、何より大切な気がします。

それを教えてくれたゆうちゃんと日向くん、仲間と先生に今でも感謝しています。

常軌を逸した11歳の自分をいつまでも越えられずにいましたが、

なんとなく、最近、あの頃の感覚が戻っているが嬉しいです。

今度こそ、サウザーになれるかも!